勢力図から見る三國志
※地図を載せているので、かなり重たいと思います(>_<)
※地図は、『三國志文庫 荊州支店』さまより戴いたものを加工したものです。
西暦184年 黄巾賊蜂起当時 | |
この当時は、群雄割拠という時代ではなく、ただ単に、黄巾党が蜂起したということなので、張角の勢力以外は、全て漢の領土ということになります。 この年、帝から大将軍の地位を授かった何進は、諸将に黄巾賊討伐を命令し、曹操や孫堅、そして劉備らが大活躍することになります。 そして、そのかいあって、黄巾賊は大勢力の中、蜂起から一年足らずの間に鎮圧させられてしまいます。 しかし、黄巾賊が壊滅してからは、各地で色々な武将たちが漢に逆らい蜂起しています。 ということなので、この黄巾賊蜂起は、漢の領土から、それぞれの勢力が熾烈な争いをする、群雄割拠の時代のさきがけの時代ということになります。 関連事柄 |
西暦189年 群雄割拠当時 | |
董卓が、帝を廃し、新たな帝を立てたときの勢力図です。 184年の黄巾賊の乱のときは、一勢力でしたが、この当時はこの地図だけでも17もの勢力がありますが、実際はもっと多いです。 劉備や曹操の勢力はこれほど大きくありませんし(~_~)。 でも、これでほとんど主要な勢力は揃いました。董卓が帝を奉戴した後、袁紹を盟主とする、反董卓連合が結成され、ここにのっているほとんどの勢力(馬超・韓遂、劉璋、劉表をのぞく)がそれに参加しました。 しかし大した成果も上げられずに、連合は解散、その後連合の長、袁紹は韓馥を騙し、冀州を得、さらに、加盟していた公孫瓚と戦争をおこし、さらに孫堅と劉表が戦い、孫堅が討ち死にするなど、醜い争いが起こることになります。 その後、董卓の配下、王允や呂布などの陰謀により、董卓は死亡。しかし王允は董卓の残党、李[イ寉]、郭らによって殺され、呂布も都を追われることになり、ますます群雄割拠が激しさをますことになります。 関連事柄 |
西暦194年 曹操天子奉戴当時 | |
前の地図から五年経っているわけですが、結構勢力は減っているような感じがします。ぱっと見た感じ、曹操と孫策、袁紹の勢力がかなり大きくなっています。 とくに孫策は、父孫堅死後、袁術の配下として働き、その後ようやく自らの勢力を手に入れ、まさに破竹の勢いで城を落としていきます。 以外に張楊が残っていたりするのも、けっこう驚きです。 董卓死後、曹操は青州黄巾党討伐に出陣。それにより大勢の兵士を得ることになり、曹操は父を迎えることになります。 関連事柄 |
西暦200年 官渡の戦い当時 | |
さらに前の地図から六年が経過したものです。小さな勢力はほとんどなくなり、勢力的に言えばみなほぼ互角ですが、総合的な評価では、袁紹が抜きん出て、その後を曹操が追っているという状態になります。 曹操が天子奉戴後、漢の実権は曹操に委ねられ、大勢力であった袁紹と対立します。 そして、曹操は、張繍、賈詡の策略により命からがら逃げ延びる事態もおきますが、その後は呂布、袁術を倒していき、袁紹と対峙できる勢力へと育っていきます。 しかし、董承らによる、曹操暗殺計画や徐州にいた劉備が曹操に反旗を翻すなどの事態も起きますが、全てを鎮圧。 ついに袁紹と白馬・官渡で対峙することになります。兵力では曹操軍の圧倒的不利でしたが、袁紹軍の参謀である許攸が寝返ったことから、袁紹軍の食料庫が発見され、曹操はそこを攻撃、袁紹は慌てて逃げ延び、官渡の戦いは、曹操が勝利しました。 関連事柄 |
西暦208年 赤壁の戦い当時 | |
袁紹を倒し、さらに劉表を降伏させた曹操の勢力が抜きん出ています。 荊州南部では、四群雄の勢力が細かく存在しています。 この状況は、歴史上名高い、赤壁の戦い直前・直後の状況です。 袁紹は、官渡の戦いで敗北後憂悶で死亡、さらに兄弟は跡継ぎを巡り争いをおこし、それに付けねらい、曹操は次々と河北を支配下に治めていきます。 関連事柄 |
西暦217年 三国鼎立当時 | |
赤壁で勝利したのは、孫権軍でした。曹操は命からがら逃げ延び、そして、曹操の南征は終了しました。 そこで漁夫の利を得たのが劉備でした。二軍が争った後、劉備は荊州南部の四勢力を降伏させ、荊州南部を得、さらに蜀へと進撃を始めます。 そのとき、軍師龐統を失いますが、劉備は蜀の劉璋を攻め降し、ついに自分の領土を手にすることに成功します。 それに起こった孫権は、荊州を明け渡すよう要求。劉備は仕方なく、荊南四郡のうち、二郡を明け渡します。 曹操は、北西の勢力、馬騰、そしてその息子馬超を攻撃し、見事に勝利、さらに漢中に勢力を築いていた、五斗米道を降します。 それに乗じて、曹操は魏王の位に就くことになります。 それから、劉備と孫権は対立、さらに曹操は孫権と組んで、劉備と戦います。荊州の主で、劉備の義弟、関羽は必至に抵抗しますが、ついに破れ、荊州は孫権の手に入ります。 関連事柄 |
西暦225年 南征当時 | |
関羽死後、魏王曹操は、病に倒れ、そのまま病死し、その息子、曹丕が跡を継ぎます。 曹丕は、配下からの進言を受け、帝から帝位を譲ってもらい、魏国を建国し、漢王朝は滅亡します。 また劉備もそれに対して、蜀国を作り、これに対抗します。しかし、劉備は関羽の弔い合戦を行い、呉に惨敗、そのまま病気で帰らぬ人となり、その息子、劉禅が帝位につきます。 劉禅が帝位につくと、魏は五路から蜀を攻めようとしますが、諸葛亮の策略により鎮圧、しかし、南蛮の王者孟獲は蜀に逆らい、益州の南部を支配下に治めます。 諸葛亮は自ら兵を率いて、南蛮軍と戦い、七回孟獲を捕らえて、心服させます。 その後諸葛亮は出師の表を劉禅に奉り、そして魏討伐のための戦を起こすことになります。 関連事柄 〔帝位僭称〕〔彝陵の戦い〕〔南蛮討伐戦〕 |
西暦234年 星落五丈原当時 | |
北伐は決して簡単なものではありませんでした。戦に勝っても食料がなくなったり、都で異変が起こったりと、一進一退の攻防で、ほとんど成果がありませんでした。 その間に、孫権は帝位も帝位を僭称し、この大陸に、三つの国が誕生しました。 諸葛亮は、北伐を繰り返すも、逆に部下にまで信頼を得ることすらできない状態になり、七回目の北伐の際、病をわずらい、五丈原にて、命を落としました。 それをいいことに、諸葛亮の配下であった魏延は謀反を起こしますが、諸葛亮の密命を受けていた馬岱によって殺されました。 諸葛亮が死んだと、魏で伝わると、皇帝曹叡は大喜びし、財の限りを尽くし、晩年は暴君として果ててしまいました。 関連事柄 |
西暦280年 三国統一直前当時 | |
諸葛亮死後、しばらくは平穏な日々が続きました。それぞれの国で戦争もなかったのですが、魏では、権力を握っていた曹爽という人物を、魏の軍師である司馬懿が、クーデターを起こし、曹爽を殺し、自らの権力を得ることに成功します。 諸葛亮死後、蜀では国力を上げるためにしばらく戦争はありませんでしたが、諸葛亮の跡を継いだ姜維は、司馬懿のクーデター以後、幾度と戦争を起こし、国力を低下させます。 そして、諸葛亮死後から約四十年後、蜀はついに魏によって滅ぼされます。 その魏も、司馬懿の孫にあたる司馬炎が、魏の皇帝曹奐から帝位を奪い、晉帝国を築くことになります。 また呉では、孫権死後、政変が幾度とおき、孫皓が帝位に就くと、暴虐にふけり、そして西暦280年、晉によって滅ぼされ、晉が三国を統一することになります。 関連事柄 |