名前 劉馥 元穎
ルビ リュウフク ゲンエイ
所属 魏(曹操)
?〜208 ?歳没
列伝 魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五

 

劉馥は三國志シリーズに登場しない。
そのため、武将のレーダーチャートを省略した。

〔列伝〕
 劉馥は沛国相県の人である。彼は動乱を避けて揚州に赴いていた。
 建安年間の始め頃、袁術の将軍である戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢を引き連れて曹操のもとへと降伏させた。曹操はそれを喜び、劉馥を司徒の役所から召しだして、掾とした。
 後に孫策が任命した廬江の太守である李述が揚州の刺史である厳象を攻撃して殺害したとき、廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが同胞数万人を集めて、長江、淮河一帯の地域に蜂起し、郡や県は破壊された。曹操は丁度そのとき袁紹と戦をしていたので、劉馥なら東南のことを任せるのに適任だと考え、帝に上奏して、劉馥を揚州刺史に任命した。
 劉馥は任命を受けるとすぐに単身馬に乗り合肥の空城に行き、州庁を設けて、南方の豪族雷緒らを手なずけ、彼らを落ち着かせたので、劉馥に献上品が相次いだ。
 数年のうちに、恩恵の教化が十分に行き渡り、民はその劉馥の政治を喜び、川や山を越えて、劉馥のいる合肥城に身を寄せる流民は五桁にも上った。
 そこで劉馥は学生らを集め、学校を建てて、屯田を拡大し、合肥付近の諸堤防を築いたり修理したりして、田んぼを灌漑し、お上も民を蓄積ができた。また城壁や土塁を高く築き、木や石を沢山積み上げ、むしろを数千万枚編み、さらに魚油数千石を貯蔵し、戦争の備えをした。
 建安十三年(二〇八)年に劉馥は死亡した。その後、孫権が十万の軍勢を率いて合肥城を百余日に渡って包囲した。そのとき連日雨が降り、城壁は今にも崩れそうになった。そこで、兵士らはむしろで城壁を覆い、夜は魚油を燃やして城外を照らし、呉軍の行動を監視しつつ、防備した。その結果、呉軍は敗れて背走した。
〔私評〕
 この人物、実は蒼天航路に出てくるまで全く知りませんでした。といっても、演義では赤壁の戦いのほんの一瞬しか登場しなかったのですが・・・。
 はっきりいって、僕はこの人物に感動しました。「単身馬に乗り合肥の空城に行き、南方の豪族雷諸らを手なずけ・・・」これだけでは感情が伝わってきませんが、蒼天航路で曹操が、この合肥城に来るときのことを話すと、凄く悲しくなってきます。それに、その後雷諸を討伐するシーンで、捉えられた雷諸は、唯一劉馥だけに心を寄せていたと話しています。すごいです。雷諸は豪族というより、賊と言った方が正しいでしょう。その賊が慕っていたのですよ!どれだけ人徳があったことか。
 それに、劉馥はいつでもむしろ数千万枚と、魚油数千石を貯蔵していたことにより、呉の攻撃を防ぐことができ、呉との最前線を守ることができたのです。今後は、彼の名声も上がり、コーエーの三國志シリーズにも登場するよう期待しましょう。