アイテム等データベースvol.2

赤兎馬(せきとば)

DATA
所有者:董卓→呂布→曹操→関羽→馬忠(死亡)
形状:

 「人中の呂布、馬中の赤兎」という言葉でも有名な通り、赤兎馬は馬の中の馬、どの馬にも引けを取らない、この当時の中国最強の馬である。
 一日に千里(約420km)という長距離を走ることができ、どの馬も決して追いつくことができなかった。そして全身が赤い毛で覆われていた。
 この赤兎馬はもともと董卓の持ち物であった。しかし、呂布を自分の配下とする際にこの馬をエサに、呂布に自分の軍に入ることを要求。呂布はそれに応じた。
 赤兎馬は荒馬で、普通の武将が乗っても手懐けることができなかったが、呂布はこの馬を手懐けることが容易にでき、また呂布の爆発的な速さの攻撃の対してもしっかりついていき、まさに以心伝心、鬼に金棒であった。
 呂布が都を追い出されてからもずっと呂布の愛馬として、呂布に従い、呂布が白門楼の戦いで戦死すると、赤兎馬は呂布を殺した曹操の手の内に入ったが、すぐにこのとき曹操配下として戦っていた関羽に、褒美として赤兎馬を渡し、赤兎馬は関羽の愛馬となった。
 その後、関羽とともに生涯をともにし、そして関羽が樊城の戦いで破れ、打ち首になった際、関羽を捕らえた戦功として、呉の将軍馬忠に褒美として授けられたが、それから数日、何も食事を食べずに死んでいった。
 ただ、董卓が呂布に赤兎馬を送ったのが西暦189年であり、赤兎馬が死んだのは、西暦219年であるため、最低でも30年+乗れるまでの成長の期間(何年かはわからないので、5年とする)で、35年。現在の馬で寿命は25〜30歳であるから、この当時はもっと寿命は短い。ということなので、35年間、ずっと同じ馬だった可能性は低い。

的盧馬(てきろば)

DATA
所有者:張武→劉備→劉表→劉備
形状:馬

 劉備が、荊州の劉表のところに居座っている際に、反乱が起きた。劉備は自らの軍隊を出動させ、その反乱を鎮圧させ、趙雲が、敵将張武から奪い取った、名馬を劉備に献上した。
 劉備はそれに跨り、ある日劉表のもとへと赴き、劉表がこの馬を気に入り、譲ることにした。だが、その後、劉表の幕僚である、蒯越が「この馬には涙袋があり、額に白い点があり、これは的盧と呼ばれる、不吉な馬です」と言って、劉備に馬を返すことを進めた。
 劉表はそれに従い、的盧を劉備に返還し、劉備もこの馬が凶馬であることを知ったが、気にも留めなかった。
 そして、劉表の武将、蔡瑁が劉備暗殺のため、劉備を宴会に招待した。劉備は宴会に出たが、途中で劉表配下の、伊籍が劉備に、蔡瑁から狙われていると聞き、劉備は慌てて、的盧に跨り、逃げた。
 だがそれに気付いた蔡瑁は、兵を率いて劉備を追撃。徐々にその差が縮まり、そして劉備の前に、壇渓という、川の流れの激しい場所があった。劉備はこの馬が凶馬であると分かりながらも、壇渓に飛び込み、何とか一命を取り留めた。後に、劉備が川を渡れたのは、劉備が死ねば、馬自身も死ぬから、劉備が助かったのだという。
 その後、この馬は登場しないが、益州討伐の際、軍師である龐統の馬が、暴れだし、劉備は代わりに自分の白馬を渡した。
 龐統はその馬に乗り、落鳳坡へと向かったが、そのとき劉璋配下のものによって射殺されてしまった。もしかすると、この白馬が、的盧なのかも知れない。
 ちなみに、的盧とは馬の名前ではなく、馬の相の名前である。