名前 温恢 曼基
ルビ オンカイ マンキ
所属
?〜? 45歳没
列伝 魏書 劉司馬梁張温賈伝第十五

 

温恢は三國志シリーズに登場しない。
そのため、武将のレーダーチャートを省略した。

〔列伝〕
 温恢は太原郡[示β]県の人である。彼の父の温恕は、涿郡の太守となった後亡くなった。そのとき温恢は15歳だったが、棺を守って、郷里へと帰った。
 家は裕福であったが、温恢は
「今、大陸は混乱に喫しており、いくら富が豊かであろうと、どうすることもできない」
 といい、親戚に全てを分け与えてしまった。
 彼の郷里では、その行いを立派だと讃えて、彼を前漢末にいた郇越と比較した。郇越は孝廉に推挙され、廩丘の長官、鄢陵の県令、広川の県令、彭城の相、魯の相となったが、いずれの任地でも評判を得た。
 温恢は都へと入って、曹操の丞相主簿となり、その後都から離れて、揚州の刺史となった。曹操は言った。
「お主をわしの側に置きたいと強く思うのだが、考えればこの揚州の政治の重大さには変えられん。だから『尚書』(書経のこと)に『頼みとする部下は、全てのことに安泰である』と書かれているのだ。蒋済に州の治中になってもらわなければならない」
 当時蒋済は曹操により丹楊(丹楊?)の太守に任命されていた。そこで蒋済を出身州である揚州へと返した。また、合肥に駐屯している、張遼、楽進らに対して、
「新たな揚州の刺史は軍事に熟練している。いっしょに相談して行動せよ」
 と命じた。

 建安二十四年(二一九年)、孫権が合肥を攻撃した。このとき諸州は皆守備のために兵を駐屯させていた。このとき温恢は、兗州の刺史裴潜に話した。
「この辺りには多数賊がいるが、心配するほどのことでもない。それより気になるのは、南征している軍に何か思いがけないことが起こらないかということだ。
 現在、水位が増えているのに、曹仁将軍は敵地奥深くに孤立しており、将来の危機に対して備えがない。それに蜀の関羽は勇猛であり、利にあって攻撃をしかければ、災難を引き起こすに違いない」

 結局、樊城において于禁が蜀軍に包囲され、捕虜になってしまった。詔勅により、裴潜と豫州の刺史、呂貢らを呼び寄せたが、裴潜らにはゆっくりと来るよう命令した。
 そのとき、温恢は密かに裴潜に対して言った。
「このゆっくり来るようにというのは、襄陽の危急に対して駆けつけよ、という意味だろう。至急に集めない理由は、遠方の民衆を驚かせたくないからだろう。数日の間に必ず君のもとに密書が届き、早くくるよう、せき立てるだろう。張遼将軍らもまた召集を受けるだろうが、張遼将軍らは、魏王の心情を察しておる。彼が後から召されて、君より先に到着すれば、君は王からお咎めを受けるぞ」
 裴潜はその温恢の言葉を聞き入れ、輜重部隊を残し、軽装備ですぐに出発したが、案の定催促の命令を受けた。張遼らが次いで招集されたことは、全て温恢の予測したとおりである。

 曹丕が帝位に就くと、温恢を侍中に取り立てた。その後都の外に出て、魏郡の太守となった。その後数年して、涼州刺史・持節領護羌校尉に昇進したが、その道中で病にかかり、そのまま死亡した。時に四十五歳のことであった。
 詔勅では
「温恢は国家の柱石たる才能を持ち、先帝にお仕えし、功績は明白である。さらに朕のために事務を行い、王室に対して忠誠であった。だからこそ、彼に遥か彼方での任務を与え、一方面の政治を任したのだ。それが、何としたことか道中で倒れた。朕は大変それを悼むものである」
 その後温恢の子、温生が関内侯の爵位を賜ったが、温生は早くにしてなくなったので、爵位は断絶した。
 温恢がなくなった後、蜀の軍師、諸葛亮の親友である、孟建(字:公威)が涼州刺史となり、優れた政治として評判になった。官爵は征東将軍にまで昇った。 

〔私評〕
 この人物、実は蒼天航路に出てくるまで全く知りませんでした、シリーズの第二弾!(シリーズ化?)蒼天航路ではかなりかわいらしいというか、頭がでかいという、そういう不思議な(?)イメージでしたが、これでは結構頭が切れて、結構凄い人のようです。
 まぁ、でも丞相主簿に上り詰めたのだから、かなり曹操にその才能を認められたということなんで、やはりかなりカシコイということなんでしょうか!?