Guo Jia Fenxiao

名前 郭嘉 奉孝
ルビ カクカ ホウコウ
所属 魏(曹操)
169〜207 38歳没
列伝 魏書 程郭董劉蒋劉伝 第十四

 

ゲーム三國志に見る、郭嘉の能力

  武力 知力 政治力 統率力 魅力
三國志Y 23 99 92 47 80
三國志Z 12 96 92 83
三國志[ 24 97 90 82
三國志\ 10 98 81 58
平均値 17.3 97.5 88.8 52.5 81.7

三國志Z、[については統率力がないので省略し、三國志\では魅力が無いので、魅力を省略した。
また、少数は小数第二位を四捨五入した。

郭嘉の平均値をレーダーチャートで表すと、左図のようになる。三国志演義などではあんまり活躍していないように見えるが、知力は97.5!!それに政治力88.8に魅力81.7。完璧に軍師肌の郭嘉。ただレーダーチャートを見ると、武力の統率力が極端に低いため、能力値が低く見えます。
〔武将の能力〕
『軍師』:知力と政治力が高い。
〔武将のランク〕
C:平均値合計337.8

〔列伝〕
 郭嘉は、潁川郡陽翟県の人である。郭嘉は若い頃から将来を見通す見識を持っていた。後漢末、天下は乱れようとしていた。郭嘉は二十歳頃から、名前や経歴を隠して、密かに英雄たちと友好関係を築き、俗世間とは付き合わなかった。そのため、当時の多くの人々に彼の存在は知られずに、ただ見識があるものだけが、彼を評価した。
 彼は、まず北に勢力を築く袁紹に会ったが、そのとき袁紹の参謀である、辛評と郭図に
「そもそも知恵のある者は、主君の人格をしっかりと判断するものです。だからこそ、、全ての好意は安全で名誉を打ち立てられるのです。袁紹殿は、わざと才のあるものに対してへりくだった、周公(周の武王の弟)のような態度をとっておられるが、袁紹殿は人を使う術は存じておられません。色々なことをやられながら、肝心なところでおろそかにしてしまうことが多く、策略が好きながら、決断がなく、優柔不断です。袁紹殿と協力して天下を救い、覇者の事業を完成させるのは、非常に難しいことです」
 と言って、結局袁紹のところから立ち去った。
 この出来事より前、潁川に戯志才という人物がいた。戯志才は策略に優れた人物であり、曹操によってその才は大いに重んじられていたが、早くに死んでしまった。そこで曹操は荀ケに手紙を送り、『戯志才がなくなってしまい、計略を相談できる人物がいなくなった。汝陽や潁川は優れた人物が多数いるが、誰が戯志才の後を継いでくれよう』と催促すると、荀ケは郭嘉を推薦した。
 曹操は郭嘉を呼び出して、天下のことに関して議論をした。曹操は郭嘉に言った。
「本初(袁紹)は冀州の軍勢を持ち、青州や并州を従属させ、領地は広く、兵力は強い上に、たびたび天使に対して、不遜な態度をとっている。わしは彼奴を討伐したいのだが、我が軍では相手にならない。どうすればよい?」
 すると郭嘉は
「高祖劉邦と項籍の兵力には圧倒的差があったのは、殿もご存知の通り。劉邦は項籍に対してただ知力だけが優っていたのです。しかしそのおかげで、項籍は強大な兵力を持ちながらも、結局捕らわれました。
 私が考えるに、袁紹には十の敗北の要因を持ち、ご主君には十の勝利の要因を持っておられます。袁紹はたとえ兵力が強大だとはいえ、殿には手も足も出せないでしょう。それに袁紹は形式的な礼式、作法を好んでいますが、殿は自然のままでおられます。これが殿の優れた点、『法則』の一つです。
 また袁紹は天子に対して敵意を持って行動しているのに対して、殿は天子を奉じて、天下を従えておられます。これが『正義』の二点目。
 漢は締りのなさから、政治が失敗していました。袁紹はその締りのなさを利用して、締りのなさをしようとしています。これではなんの意味もありません。殿は厳しさを持って政治を正し、上下ともにわきまえておられます。これが『政治』に優れた第三点です。
 袁紹は外見は寛大でも、内心は猜疑心が強く、人を用いる場合、その人物を完璧には信用しません。彼が信用するのは、親戚や子供ばかりです。一方、殿は一見簡略に見えますが、内ではしっかりとその人物を見定め、用いる場合疑いを持たず、才能さえあれば、親戚、他人わけ隔てなく、用います。それが、度量が優れた第四点。
 袁紹は、策略にのみこだわって優柔不断です。殿は良い策が見つかればすぐに実行し、さらに変化に対応して、臨機応変になさっています。これが策謀に優れた第五点目です。
 袁紹は、代々に渡って積み重ねた基礎をもとに、気高くて立派な議論と、謙虚な態度で評判を得ました。議論を弄び、外見ばかりに気を取られる人物の多くは彼に集まってきました。殿は、真心を持って、他人を待遇し、誠意を持って、実行されます。外見だけを飾ることはなさらずに、慎ましさを持って従わせ、功績があるものには、惜しむことなく恩賞を渡されます。そのおかげで、誠実で将来を見通す真の実力のある者は、皆殿野役に立ちたいと申しております。これが仁徳に優れた第六点。
 袁紹は他人が飢えに苦しんでいたり、凍える人を見ると、哀れみの気持ちを顔に表しますが、眼に触れないことは見過ごします。これでは、『婦人に仁愛』に過ぎませぬ。殿は目の前の小さなことについて、時には蔑ろにされることもありますが、大きなことでは、天下のことだと考え、恩愛をなされ、全てが期待以上です。眼に触れないことに対しても、周到に考慮なされ、処置されないことはございません。これは愛情の面で優れた八点目。
 袁紹は事の良し悪しの判断をはっきりと致しません。殿は、良しとする場合、礼を持ってそれを推し進め、良しとしない場合は、法の力を持って正しく直されます。これが法政の優れた九点目。
 袁紹は好んで強がりばかりを見せますが、軍事の要については知りません。殿は少ない数にて多勢を破り、用兵は正に神の様に、味方の将兵はそれを頼みとし、敵はそれを恐れています。これが軍事の優れた十点目です」
 すると曹操は笑いながら
「君が言うほどわしには徳を持っていようか?」
 郭嘉はまた
「袁紹は今、北方の公孫瓚を攻めております。彼の遠征を利用し、東に行き、呂布を攻めるのがよろしいでしょう。呂布を捕らえずにおいて、もし袁紹と戦をした場合、呂布が袁紹の味方となれば、それこそ大きな災いです」
「正にその通りだ。わしに大事を完成さしてくれるのは、正しくこの男だ」
 すると、郭嘉も喜び、退出後
「曹操殿こそ、まことに私の主君だ」
 と喜んだ。
 曹操は帝に上表して、司空軍祭酒に取り立てた。

 曹操が呂布討伐に際して、続けて三度も撃破すると、呂布は下邳城へと退却し、徹底した籠城の作戦に出た。曹操軍の兵士らは疲弊しており、曹操は軍を引き上げ、帰還しようとしたが、そのさいに郭嘉は曹操に進言した。
「昔、項羽は七十数回戦をして一度も負けたことはなかったのに、突然勢力を失い、さらには身を滅ぼし、国も滅ぼしました。それは、武勇にのみを用いて戦を征し、策謀を用いらなかったからです。
 今、呂布は戦ごとに敗退を繰り返し、士気は衰え力尽き、内外共に確かな信望を持てずにおります。しかも呂布の勢いなんぞは項羽に及びつかない上に、彼以上に困憊しております。このまま勝ちに乗じて呂布を攻撃すれば、呂布を捕らえることができます」
 すると、曹操は
「まさにその通りだ」
 と郭嘉の進言を採用し、かくして呂布を捕らえることに成功した。(このことは荀攸伝に書かれているので、省略します)
 『魏書』に書いていること。
 劉備が呂布のもとから逃げてくると、曹操は劉備を豫州の牧に任命した。するとある人物が曹操に進言した。
「劉備は英雄としての力量を備えております。今のうちに始末せねば、後々に大きな災いとなりましょう」
 曹操はそのことを郭嘉に質問した。
「確かに正論です。しかしながら、殿は剣を引っさげて正義の兵を起こし、人民のために暴虐と戦っているのです。殿は誠意を貫き信義に頼って英傑を招いても、まだ不十分かと心配なされます。
 今劉備は大陸各地で英雄としての評判が高く、追い詰められて我らの元へ助けを求めにやってきているのに、それを殺害すれば、英雄を殺したと、殿が悪い評判を受けます。
 さすれば知略に長けた者たちは殿に猜疑心を抱き、殿のもとから離れていってしまいます。そのような事態になれば、殿は誰と天下を得ようとするのですか?そもそも一人心配な男を除くことによって、逆に大陸の内の期待を裏切ることになります。安全なのか危険なのかのきっかけになることを知らなければなりません」
 すると曹操は笑いながら言った。
「君はこのことをしっかりと理解しておるな」
 一方『傅子』に書いていること。
 最初劉備がやってきて曹操に降伏してきたとき、曹操は賓客に対する礼遇を持って彼を待遇し、豫州の牧に任命した。そのとき郭嘉は曹操に進言した。
「劉備はずば抜けた才能を持っており、さらに人心をよく心得ております。またその部下の関羽や張飛は、一人で万の相手とやりあうことができる豪傑で、彼のために決死の働きをします。私がみたところ、劉備は結局のところ人より下の位置につくことをせず、その彼の計略は全くを持って予測できません。古の理では『一日敵を野放しにすれば、何世代にも渡る災い』だと言っております。早く、劉備を始末するのがよろしいでしょう」
 このころ、曹操は天子を奉戴し、天下に号令をかけており、英雄を味方にして、それによって大いなる信義を得ようとしていたので、郭嘉の計略に従うことができなかった。
 その後、ある日、曹操は劉備を用いて袁術を迎撃させようとした。郭嘉は程cとともに慌てて曹操のもとへと駆けつけ、曹操に言った。
「劉備を放てば、とんでもないことになります」
 しかしすでに時遅く、劉備は立ち去っていた。そしてその後兵を挙げて、曹操に謀反を起こし、曹操は郭嘉の意見を採用しなかったことを悔やんだ。
 つまり『魏書』と『傅子』では書いていることが全く逆なことである。

 孫策はあちらこちらを転戦し、江東地方を全て領土としたが、曹操が袁紹と官渡で対峙していると聞き、今こそ長江を渡って北方へと向かい、許都(許昌)を襲撃しようと目論んだ。
 許都の人々はこれを聞くとびくびくしたが、そのとき郭嘉は曹操に言った。
「孫策は江東を併呑したばかりで、しかも殺したのは英雄豪傑、さらによく部下の信頼が厚かったものばかりです。それなのに孫策はそのようなことは軽く考え、警戒しておりません。百万の軍勢をもってしても、所詮は野原の中をただ一人で行くのと変わりはありません。もし刺客が突然襲えば、たった一人でも十分に相手できましょう。私の考えでは、孫策は必ず匹夫の手にかかり殺されるでしょう」
 そしてその後、案の定、孫策は許貢の食客によって殺された。

 郭嘉は曹操に付き従い、袁紹を破り、そしてその後袁紹は死亡した。また黎陽にいる袁譚・袁尚兄弟を討伐し、連戦連勝であった。諸将らは、勝ちに乗じて最後まで彼らを攻めるよう提案した。しかし郭嘉は言った。
「袁紹はこの袁譚、袁尚を可愛がっておりましたが、後継者は立てておりません。郭図と逢紀はそれぞれ彼らの参謀となっておりまして、それぞれの間で争いが起こり、それぞれ離れ離れになるでしょう。もしこのまま攻め続ければ、二人は手を組んで、助け合います。
 しかし、このまま攻撃を緩ませれば、彼らは必ず争いを起こします。荊州に向かい、劉表討伐をするように見せかけて、彼らの動向を見定めるのがよろしいでしょう。そこで変化がおこりますれば、攻撃すれば、まさに破竹の勢いで、河北を平定できましょう」
「まさにその通りだ」
 曹操はそう言った。そこで、曹操軍は南征を行った。そして軍が西平についた頃、郭嘉の目測どおり、袁譚と袁尚が冀州の主権を巡って争いを始めた。袁譚は袁尚の軍に打ち破れ、敗走し平原を守り、辛[田比]を曹操の元へと派遣し、降伏を願い出た。曹操は引き換えして袁譚を救い、郭嘉は曹操に付き従い、鄴を平定した。また南皮にいる袁譚を攻撃し、冀州は平定された。郭嘉は洧陽亭侯に任命した。
 その後も、郭嘉の策略により、曹操は、青州、冀州、幽州、并州で名が知られている人物を多数招聘し、彼らを臣下として、省事・掾属とした。

 曹操は、袁尚と、彼を助ける、漁陽、右北平、雁門に勢力を広げる烏丸族を討伐しようとした。多くの家臣は、劉表が曹操を討伐するために、劉備を許へと攻め入るのではないかと心配した。しかし郭嘉は言った。
「殿は、威勢を天下に響かせているとは申せ、蛮族は自分たちが辺鄙な土地に住んでいるのをいいことに、防御に劣っているでしょう。彼らの防御なきところを突き、敵を急襲すれば、撃破して壊滅させることが可能です。
 それに、袁紹は人民・蛮人関係なく恩を施しており、その子の、袁煕、袁尚兄弟は生存しています。今、殿は青州、冀州、幽州、そして并州の民を、はっきりと申せば威勢だけで従えております。それで南征を行えば、袁尚は烏丸の資力を利用し、主君のために死ぬ決意がある臣下を呼び寄せます。蛮人がひとたび行動を起こせは、人民やその他の蛮族は共に呼応し、それにしたがって、蹋頓(武勇に優れた烏丸王のいとこ)の漢に対する反抗心を呼び覚ますことになり、高望みの計画すらなりたててしまうでしょう。そうすれば、恐らくは青州、冀州は我が軍の領有ではなくなるでしょう。
 劉表はただ座って議論する人物に過ぎません。自力で劉備を統御するだけの才能がないと、劉表は自負しています。劉備を重く用いれば、恐らくは制御できないであろうし、軽く用いれば、劉備は動こうとしないでしょう。荊州を空にして遠征してきましても、殿には心配及びません」
 そして曹操は、進軍した。易県まで来ると、郭嘉は進言した。
「軍事は神のごとき迅速さを重要とします。今、千里彼方に人を襲撃しようとすれば、輜重は重くなり、有利なときに馳せ参じることは難しくなります。輜重部隊を止めておき、軽装な騎兵部隊に、普通の倍の速度を持って出撃させ、彼らの不意を突くのが上策でしょう」
 曹操はそこでこっそりと廬龍塞を出て、真っ直ぐに単于(匈奴、烏丸地方の主張の意)の本拠地を目指した。敵兵は曹操軍がやってきたと知るや、その速さに驚き、合戦した。曹操は士気が低下した彼らを攻め下し、蹋頓と名王(大部族の王)以下の指導者の首を刎ねた。袁煕、袁尚兄弟は、遼東に逃走した。

 郭嘉は深く計略を考え、物事の真実を掴んでいた。曹操は「奉孝だけが、わしの胸のうちを知っている」と言っていた。郭嘉が三十八歳の時、柳城から帰還すると、危篤に陥った。曹操の見舞いの使者が入れ替わり入ってきた。その後逝去すると、曹操は彼の葬儀に立会い、深く悲しみ、荀ケ、荀攸らに対して言った。
「おぬしたちはわしと同年じゃ。しかし奉孝だけが若かった。天下のことがすめば、わしは奉孝に後事を託そうとしていた。しかしあのような若い年で死んだ。運命じゃのう」
 そこで、曹操は帝に上奏した。
「軍祭酒である郭嘉は、私と征伐にしたがって早十一年が経過し、重大な議論があるたびに、敵を前にして変化に対処しました。私の策略が決まらないうちに郭嘉は簡単に策略を考えておりました。天下平定においては、彼の計略と功績を高く評価します。不幸なことに、短命で命を落とし、仕事を完成できませんでした。郭嘉の功績は、忘れようにも忘れられません。八百戸加増し、前の分と合わせて、一千戸とすべきだと思います」
 そして郭嘉は貞侯と諡され、子の郭奕が彼の後を継いだ。

〔私評〕
 この郭嘉という人物、三國演義ではほとんど陰の存在で、蒼天航路では、序盤のメイン的存在。この二つの物語が交錯したこの正史ではというと・・・。
 ほとんどが蒼天航路と類似します。しかし、曹操に反抗的ではないし、逆に曹操が郭嘉を敬っているような気がします。ゲームの能力値だけ見ますと、諸葛亮に次ぐかといわれそうな知略。彼がもっと長く生きていれば、天下はもっと早く治まっていたでしょう。それだけに惜しまれます。