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劉備 玄徳 <リュウビ ゲントク>
ピンイン:Liú Bèi Xuándé
所属:蜀
出身:幽州涿郡涿県
年:161〜223 (62歳死去)
諡号:昭烈皇帝
劉備は前漢王朝景帝の子、中山靖王劉勝の末裔に当たると言われている。
幼い頃から好奇心のある少年で、自分の家の近くにある木に登り、その気が帝の乗る御車についている傘によく似ており、劉備は「いつかこんな大きな傘のついた車に乗るんだ」と言って、母から叱りを受けたことがあり、叔父の劉元起はいつか、皇帝の位に就くと、予想していた。
叔父劉元起の支援で、劉備は公孫瓚と共に廬植の弟子となるが、学問はあまり好まず、無口で喜怒哀楽を面に表さず、人にはへりくだった態度で接し、天下の豪傑と交わりをもつ一方、きれいな服を着飾り、音楽を好んで、若者の取り巻きができた。
その劉備は、黄巾賊の乱が起こると、関羽、張飛と義兄弟の契りを結び、長男として二人を統制し、また義勇軍を結成して、黄巾賊を討伐し、功績があって安喜の尉に任命される。
尉となって、しばらくした後に督郵(管轄下の県を監察する役人)が劉備の元に現れ、賄賂を要求してきた。劉備はこれに激怒し、督郵を木にぶら下げた上で、鞭で200回も叩いた。
劉備はその後官爵を捨てお尋ね者となったが、公孫瓚の客将となって、反董卓連合に参加し、その後盤河・界橋の戦いで公孫瓚を助け、公孫瓚はその代わりに劉備を平原の相にするよう上奏し、劉備は平原の相となる。
徐州の陶謙の死後、印綬を譲られて徐州の牧となるが、逃げてきた呂布をかくまった後、呂布に裏切られ徐州を奪われ、その後呂布に和睦を申し入れ了承されるが、再度呂布に裏切られ、曹操の元へ落ち延びる。
その後、曹操と共同で呂布を攻め、呂布を倒すと、帝に謁見し、左将軍に任ぜられ、帝から劉皇叔と呼ばれるようになった。
曹操からは「天下の英雄は君と予のみだ」と言われて、曹操から警戒されるようになったが、その折、董承からの曹操暗殺計画に加担するも、袁術攻めを口述に許都から逃げて、徐州に入ると、車騎将軍車冑を斬って、徐州を曹操の領内から独立させるが、すぐに曹操軍に攻められ、徐州は落ち、劉備、関羽、張飛は散り散りとなり、劉備は袁紹を頼る。
袁紹の食客となった後、曹操軍と袁紹軍は会戦するが、その戦いで曹操に降伏していた関羽が、袁紹麾下の武将、顔良と文醜を斬り、袁紹のもとにいられなくなり、袁紹の元を逃げ出す。
逃亡の途中で、関羽、張飛ら旧臣再開した劉備は、汝南から曹操の背後を突こうとするが失敗し、荊州の劉表を頼る。
その後七年近くの間劉表の世話となり、有名な髀肉之嘆を託け、名軍師徐庶、そして三顧の礼を以って、諸葛亮を自分の配下と迎えるも、劉表が死亡し、後を継いだ劉jは、曹操に降伏し、またもや劉備は逃避行を強いられる。その際は、何十万の民が劉備に付き従った。
大勢の民と家族を亡くした劉備は江夏へ落ち着き、諸葛亮を派遣し、孫権軍と曹操軍を戦わせることに成功し、その戦いである赤壁の戦いの終わった後、兵士を江陵に派遣し、江陵を征圧し、その後は荊南四郡を手中に収めた。
さらに劉備は蜀に入り、劉璋軍を戦い見事勝利し、漢中王の位に就き、曹操の勢力に対抗しうる戦力を身に付けた。
その後、劉備は漢中を攻撃、夏侯淵を斬り、漢中を落とした後、曹操自らの遠征を撤退させ、確固たる足場を築き、また219年、自ら漢中王の位に就き、曹操に対抗する。
だが、その後に荊州を巡る孫呉との争いが白熱し、曹操と同盟を結んだ孫権は、麦城で篭城した関羽を捉え、処刑する。関羽が殺されるという悲報が劉備のもとに届くが、その悲しみにくれる暇もなく、曹丕によって漢王朝が滅亡し、劉備も帝位に就くが、その後張飛が部下に殺される。
劉備は復讐の名の元に、諸葛亮や趙雲の反対を押し切って、何十万もの軍勢を率いて呉を征伐するが、呉の軍師陸遜の計略に陥り、大敗に喫し、その後失意のうちに白帝城で病没する。
臨終の際に、かけつけてきた諸葛亮に劉備は「もし劉禅が補佐するに値する人物ならば、補佐せよ。しかしその才能がなければ君が帝位に就け」と命じ、それに対し諸葛亮は「私は心から帝の下で力を尽くし、これからも忠誠をかかげ、一死報います」との答えであった。
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劉禅 公嗣 <リュウゼン コウシ>
ピンイン:Liú Shàn Gōngsì
所属:蜀
出身:??
年:207〜271 (64歳死去)
諡号:後主
劉禅は劉備が荊州で居候をしている最中に生まれた。
劉禅の母である甘氏が、劉禅を生むとき北斗七星を飲み込む夢を見て、それを吉夢だと感じた劉備は、劉禅の幼名を阿斗とした。
そしてその後荊州の主であった劉表が死に劉jが就くと、曹操に降伏し、劉備ら一行は、曹操軍から逃げるため、江夏へと向かう。何万人もの民を連れての大行軍であったため、進路は遅く、曹操軍に追いつかれてしまう。
その中で劉備の妻と劉禅の乗った車も襲撃され、劉備の正妻である、糜夫人は怪我を負いながらも劉禅を連れて、何とか逃げ延びる。
その後救援に駆けつけた趙雲に糜夫人は劉禅を託すと、近くにあった井戸の中に身を投じ、劉禅は趙雲に守られながら、一命を取り留めた。
さらに劉備が入蜀中に、孫権の妹である孫夫人が劉禅を呉へと連れて帰ろうとするが、張飛と趙雲のおかげで助けられた。
劉備が死に劉禅はわずか十七歳で帝位に就いた。劉禅は父の遺言どおり軍師であり丞相である諸葛亮を信任し、彼に国権の全てを委ねた。
政治に関しても口出しはせず、諸葛亮が北伐の間は、諸葛亮によって任命された、蒋琬、費禕に内政を任し、自らは何もしなかった。
ただ諸葛亮から禁欲するようにとの強制があったが、それを無視して酒と女の毎日を過ごし、敵の策で、諸葛亮が蜀に逆らうという噂が流れると、劉禅はもう少しで長安を落とせそうになった諸葛亮軍に撤退を命じ、諸葛亮を都、成都に呼び戻すという、愚昧ぶりを見せ、諸葛亮はそれに呆れ、さらに劉禅が以前見たときよりも、肥満しているのを見ると、蒋琬と費禕に、劉禅の生活を正すよう命じたが、効果はなかった。
諸葛亮が死ぬと、しばらくの間は内政に努めることになるが、その後諸葛亮の後を継いだ姜維が再度北伐を開始する。
姜維のいない間に劉禅は、宦官である黄皓を寵愛し、黄皓は劉禅にへりくだり、劉禅の気侭に付き合い、劉禅を堕落していった。
劉禅が全く状況の知らない中、魏の将軍であるケ艾が綿竹関で諸葛瞻、諸葛尚軍が戦死し、成都に迫ると、ようやくことの次第を知った劉禅は、降伏しようと決める。
それに対し、劉禅の子供である劉[言甚]が降伏に反対するも、劉禅はそれを無視して魏に降伏し、蜀帝国は滅びた。
劉禅は洛陽に移され、その時司馬昭が「蜀は恋しいか」と尋ねると、「ここは楽しいので恋しくありません」と答えると、魏の人ですら呆気に取られ、諸葛亮が存命中でも、結果は同じであったろうと、感じた。
劉禅はその後安楽公に封ぜられ、領地は一万戸、子孫で侯についたものは、五十人以上いたという。
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