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周瑜 公瑾  <シュウユ コウキン>
 
ピンイン:Zhōu Yú  Gōngjĭn
所属:孫策→孫権
出身:揚州廬江郡舒県
年:175〜210 (36歳死去)
諡号:忠侯

  周瑜の家系は、二代に渡って太尉を輩出し、彼の父である周異は洛陽の県令であるという、後漢王朝における名家の一つであった。
 彼は成人すると風采を持つようになり、その頃孫堅が董卓討伐軍に参加すると、家族を周瑜の住まう舒県へと移住させた。このとき、周瑜と孫堅の嫡男孫策と周瑜は同い年であったため、大いに親交を深めた。
 孫策が袁術の元から独立し、揚州牧であった劉繇を攻めようとした際、周瑜は兵を率いて孫策の元に馳せ参じ、その後建威中郎将を拝し、兵二千と馬五十頭を与えられた。
 この翌年に、孫策は荊州征服を企て、父の仇である黄祖を討とうとするため、周瑜を中護軍に任じ、江夏太守の職務に当たった。
 また、この間に喬氏の娘である、双子の姉妹の姉を孫策が、妹を周瑜が娶る。
 その後、孫策が許貢の食客に襲撃され臨終の際、世継ぎの孫権に対し彼は「内政のことは張昭に、外政のことは周瑜に任せよ」と伝え、周瑜は兵を率いて孫策の葬儀に参列し、そのまま張昭とともに後継者孫権の地盤を固めていった。
 建安十三年(二百八年)、孫権は父の仇である黄祖を討つため、江夏へと遠征を開始し、周瑜はそのとき総司令官として活躍、見事黄祖を打ち破ることに成功する。
 曹操が荊州へ南下すると、魯粛らとともに曹操と交戦するという考えを唱え、劉備陣営から軍師諸葛亮を招いて、孫権や降伏派を唱える者たちを説得させ、国を挙げて曹操と戦うことになると、周瑜を左都督、程普を右都督とし、程普を周瑜の下につけたが、周瑜は古くからの臣である程普を敬い、程普を発て、程普を大いに喜ばせた。
 周瑜は黄蓋の計略を用いて、黄蓋を曹操軍に偽装投降させ、火計を実行する。船が連なっていた曹操軍の戦艦は次々と燃え上がり、見事曹操軍を壊滅させ、そのまま程普とともに江陵を守る曹仁を攻撃、その後占領するが、その際周瑜は敵の矢を受け負傷する。
 だが、その間に劉備は漁夫の利を得て荊州南部四郡を占領し、劉備に利用されたと激怒した周瑜は、劉備と孫権の妹である孫夫人(孫仁/孫尚香)とを婚約させ、劉備を呉に招いて骨抜きにしようとしたが、趙雲や孫夫人のおかげで劉備は呉を脱出し、辛くも周瑜の計略は失敗する。
 すると、周瑜は益州の劉璋や漢中の張魯を倒して、涼州の馬超勢力と同盟を結び、曹操と対抗する、いわゆる天下二分の計を献策する。
 孫権はこの策を容認するとも、周瑜は遠征準備中に病死し、魯粛を後継とした。
 後に、孫権が帝位に就くと「周公瑾がいなかったら、私は皇帝の位についていなかっただろう」と言っている。
 


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魯粛 子敬  <ロシュク シケイ>
 
ピンイン:Lŭ Sù  Zĭjìng
所属:孫策→孫権
出身:荊州零陵郡泉陵
年:?〜? (??歳死去)
諡号:――

 

 

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韓当 義公  <カントウ ギコウ>
 
ピンイン:Hán Dāng Y ìgōng
所属:孫堅→孫策→孫権、呉
出身:幽州遼西郡令支県
年:?〜? (??歳死去)
諡号:――


 

 

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孫堅 文台  <ソンケン ブンダイ>
 
ピンイン:Sūn Ijān  Wèntái
所属:袁術→孫堅
出身:揚州呉郡
年:156〜191 (35歳死去)
諡号:武烈皇帝

 

 

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孫堅 文台  <ソンケン ブンダイ>
 
ピンイン:Sūn Ijān  Wèntái
所属:袁術→孫堅
出身:揚州呉郡
年:156〜191 (35歳死去)
諡号:武烈皇帝


 

 

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