三國志データベース

 


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孫堅 文台  <ソンケン ブンダイ>
 
ピンイン:Sūn Ijān  Wèntái
所属:袁術→孫堅
出身:揚州呉郡
年:156〜191 (35歳死去)
諡号:武烈皇帝


 孫堅は、戦国時代の兵法家である孫武の子孫であるとされている。
 彼が十七歳のとき、父に従って銭唐にやってきたとき、海賊が奪った品物を分配しているときに出くわした。孫堅は父の制止を振り切り、賊と対峙し数人の賊を切り倒すと、周りにいた人々を指揮して海賊を討伐しようとした。それに恐れをなして海賊たちは逃げ出し、そのことで孫堅は名を馳せるようになった。
 それから、熹平元年(一七二)、会稽の許昌が宗教的な反乱を起こし、数万もの勢力へと膨れ上がり、彼自身「陽明皇帝」と自称した。彼は郡の司馬として、武術に長けた若者数千人を集めてこれを討伐することに成功し、孫堅はこの功績により、塩涜県の丞(補佐役)となり、その後転任して下邳の丞となった。
 黄巾の乱が勃発すると、彼は同郷の朱儁に従い賊討伐に参戦し、彼の誘いに応じて千余りの勇猛果敢な兵士が彼の配下となった。彼は汝南から潁川にかけてを平定し、賊の主力を宛に追い込み、自ら先陣に立って城壁を駆け上り、兵士二十数名を切り伏せ、賊将趙弘を刺し殺し、見事撃破し、彼は、これで別部司馬に任命された。
 その後、涼州で辺章、北宮玉、韓遂らが反乱を起こすと、董卓がはじめこれを討伐しようとしたが失敗、代わって張温が任命され、参軍として孫堅を採用した。孫堅は、張温に呼び戻された董卓の不遜な態度を批判し、すぐに彼を処罰するよう進言したが、張温はこれに従わなかった。
 だが、このことで孫堅はさらに名を馳せるようになり、江東の虎と言われるようになり、また、董卓にも恐れられる存在となった。
 乱平定の後、ついで長沙で区星が反乱を起こすと、孫堅は長沙太守に任命され、区星を撃破、また、彼に従って挙兵した、零陵、桂陽を平定し、彼は烏程侯に任ぜられた。
 董卓が朝廷で専横すると、孫堅は挙兵し、自分に対し無礼を行った荊州刺史王叡や南陽太守のr張咨を斬って、袁術の元へと赴き、袁術は彼を豫州刺史、破虜将軍に任命し、その孫堅を恐れていた董卓は、孫堅と和睦するよう図るが、孫堅はそれをつき返し、董卓軍猛将華雄を斬り、董卓が長安へ遷都すると、洛陽へいち早く入り、暴かれた王墓を修復し、そこで玉璽を得るにいたる。
 孫堅はその後も漢帝による王政復古を行うため、董卓と戦おうとするが、玉璽を得たことで周りの諸侯への不信感が募り、また、曹操の敗北、洛陽占拠などにより、連合軍は本来の目的を失い、ついに連合軍は解散してしまう。
 孫堅は江東に帰還するとき、袁紹の命を受けていた劉表の攻撃に遭い、大きな被害を受け、かつての江東の虎といわれた勢いをなくしつつあった。
 その後は袁術の命令に従い、劉表を攻撃、劉表は黄祖に孫堅軍を当たらせた。だが、孫堅はその黄祖を打ち破り、劉表の本拠である襄陽を包囲するに至る。襄陽陥落は必至というところで、単騎で通行していた孫堅を、黄祖の兵たちが射て、孫堅はこれにより絶命した。
 このことにより、今まで孫堅が獲得してきた版図は全て劉表のものとなり、江東、江南勢力は大いに変化するに至る。


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孫策 伯符  <ソンサク ハクフ>
 
ピンイン:Sūn Cè  Bófú
所属:孫堅→袁術→孫策
出身:揚州呉郡
年:175〜200 (25歳死去)
諡号:長沙桓王


 孫策は、父孫堅が黄巾賊討伐で各地を転戦している際、母や弟たちと廬江に住んでいた。その頃に周瑜と出会い、厚い友情を交わすことになる。
 父死後、各地を転戦し、その後袁術の配下となる。父と同じく戦に長けていたので、袁術は彼を利用する。
 それから、袁術は揚州刺史劉繇と毎年戦うが、いつになっても撃破できず、これぞ好機と見た孫策は、袁術に劉繇討伐を願い出た。袁術派彼を将軍に任じて、孫堅の元兵士たち、千余名を孫策に与えた。その中には、孫堅からの腹心、程普、韓当、黄蓋などもいて、また、盟友周瑜とも落ち合う。
 孫策軍の進撃はまさに神速であり、劉繇の武将を次々と撃破して行き、劉繇は逃亡、その後劉繇の後を継いだ太史慈と意気投合して、彼を部下と治め、その一方で周瑜の推薦により、魯粛が配下となったり、張昭、張紘といった人材を手に入れる。
 その後、朱治に呉郡の太守であった許貢を撃破させこれを占領し、翌年に会稽の太守王朗を滅ぼし、ついで東呉の徳王と称した賊、厳白虎を討ち、またその周りで割拠していた賊を攻め滅ぼし、建安三年(一九八)には、呉、会稽、丹楊を手中に収め、人々は彼を、かつて漢楚攻防の楚の将軍、項羽に譬えて、江東の小覇王と呼ぶようになり、その勢いに曹操は懐柔策として、孫策を討逆将軍に任命し、呉侯に封じた。
 その翌年、袁術が死に、その配下であった張勳らは孫策の元にはせ参じようとし、その道中廬江の太守劉勳の捕虜となった。それに怒った孫策は、劉勳を誘い出し、その間に周瑜とともに廬江を急襲、旧袁術軍の兵士三万余りを得た。
 劉勳は、これに対して劉表軍の将軍であり、孫策の仇敵、父孫堅を殺した黄祖に助けを求め、黄祖はそれに応じて孫策軍と決戦になるが、戦は孫策の圧倒的勝利に終わり、その勢いに乗じて黄祖の本拠地、江夏まで迫り、その江夏でも黄祖を討つことはできなかったものの、孫策軍の大勝利に終わるが、孫策は江夏を占領することなく、虞翻を派遣して、豫章太守華歆を降伏させ、豫章軍を得る。
 劉勳は曹操の元へ逃げ延び、孫策は廬江太守に李術を任命、曹操軍と孫策軍との間に緊張が走る。奇しくも、曹操は河北の袁紹との決戦の間際であり、孫策にとって曹操軍と戦うのには絶好の機会であった。
 だが、孫策が単騎でいるところを、許貢の食客に襲われ、なんとか難を逃れるものの、重傷を負い、もう助からぬと悟った孫策は、周瑜や張昭、そして、弟の孫権を呼び寄せ、孫権を世継ぎとして、周瑜、張昭に後事を託して果てた。

 

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孫権 仲謀  <ソンケン チュウボウ>
 
ピンイン:Sūn Quán  Zhòngmóu
所属:孫策→孫権、呉
出身:揚州呉郡
年:182〜252 (71歳死去)
諡号:大皇帝


 孫権は、父孫堅が下邳の丞を務めているとき、次男として生まれ、顎が張って、口が大きく、目はきらきらと輝いており、孫堅は、息子が将来大物になると、確信していた。
 十五歳で孝廉に挙げられ、その後茂才に推挙され、奉義校尉代行の職務を与えられる。
 その後、孫策に付き従い、劉勳を討伐し、その後、黄祖を討伐するが、しばらくして兄孫策が凶刃に倒れて、十八で孫権が孫家の家督を継ぎ、呉、会稽、丹楊、廬江、豫章、廬陵六郡の太守となるも、この世継ぎ問題に対して、廬陵太守孫輔や、廬江太守の李術らが造反を企てるも、これを鎮圧することに成功する。
 孫策の遺言どおり、外政に関しては周瑜を、内政に関しては張昭を筆頭として、政権の安定化に勤め、また、連年に渡って劉表領江夏を攻撃し、ついに父の敵である黄祖を殺し、積年の恨みを晴らすことになる。
 同年、荊州牧の劉表が逝去。そして、将軍蔡瑁の姉である、劉表の後妻蔡氏の子劉jが位を継ぐと、すぐに身の安全を図り降伏、曹操は荊州全域を手中に治めることになり、孫権は曹操と対抗するため、荊州に近い、柴桑へ本拠地を移し、魯粛を劉備の元へ派遣し、曹操に降伏しようとする派を抑えて、劉備と同盟を結び、周瑜、程普を左右都督に任命し水軍を率いさせ、烏林において曹操軍を打ち破り、曹操の全土統一の夢を打ち砕いた。
 その翌年には周瑜に南郡江陵の攻撃に向わせ、一年余りの戦いの末、江陵太守曹仁を徹底させ、孫権は周瑜を江陵太守に任命、周瑜自身、劉備の推挙によって漢王朝の車騎将軍と徐州の牧を兼任することになる。
 だが、その間に劉備は荊州四郡を占領するに至り、孫権と劉備は荊州四郡の所有について争うことになるが、その筆頭であった周瑜が死亡し、また、劉備もこれ以後益州を攻めるということで、荊州四郡を劉備に「貸し」、西部の安全が守られた、ということで、秣陵石頭に城壁を築き、ここに本拠地を移し、秣陵から建業へと名前を変える。
 そして、それから次いで曹操軍とまず合肥で戦い、その後濡須において曹操軍と両方ともに一ヶ月以上に渡って対峙する。孫権有利に戦は進められ、それでいて孫権軍が意気盛んな光景を見て、曹操は感嘆し濡須から撤退する。
 一方、建安十九年(214)、劉備は益州牧劉璋を倒して益州を領有した。そこで、諸葛瑾を派遣して、劉備に益州返還を要求するが、劉備はこれを拒否し、そのため呂蒙に荊州南部を攻撃させる傍らで、魯粛に関羽の進攻を防がさせた。
 そして、いざ荊州を巡る大戦となろうかとしたとき、曹操が漢中に侵入、両挟みに攻撃されることを恐れた劉備は、孫権と和睦、孫権は長沙、江夏、桂陽以東を手に入れ、劉備と再同盟した。
 建安二十四年(219)、関羽は北伐を開始。于禁軍を降伏させ、そのまま曹仁のいる襄陽を包囲するに至り、まさに襄陽を陥落させようとしたとき、孫権はこれ以上の劉備の勢力の拡がりを恐れるため、呂蒙の計に従い、関羽の背後から急襲。その後、呂蒙と陸遜の計略により、関羽、関平らを捕縛、関羽の首を曹操に送り、曹操は孫権を驃騎将軍、荊州牧に任命し、同盟を結んだ。
 翌年、曹操が死去し、曹丕が魏帝国を建国すると、その翌年に曹丕は孫権を呉王に封じ、大将軍に任命し、九錫を与えた。
 孫権は、帝位についた劉備が、関羽の復讐に力を注いでいるので、これに対抗するため首都を武昌とした。陸遜を都督に任命し、黄武元年(222)、彝陵において劉備軍を散々に打ち破り、劉備は白帝城に撤退する。
 曹丕はこれを大いに喜んだが、孫権は内心では魏に忠義を尽くしているわけでもなく、それを曹丕は悟り、辛毘らを呉に派遣して、孫権の息子を魏の朝廷に招きたいと孫権に伝えた。この人質を送ることを孫権は拒否し、秋、魏は曹休、張遼、臧覇らを洞口まで軍を進めさせ、曹仁には濡須まで兵を進ませ、曹真、夏侯尚、張郃、徐晃らには南郡を包囲させた。
 これに対して、孫権は呂範らに水軍を率いさせて曹休らの進出を留めさせ、諸葛瑾、潘璋らを江陵救出に派遣させ、朱桓を濡須の都督として、曹仁の進攻を防がせようとした。しかし、この頃、揚州での越族などの異民族が、呉に対して反抗的な態度を取っていたので、孫権は仕方なしに、今までの謝罪の文を曹丕に送り、曹丕もこれに了承した。
 十二月、孫権は太中大夫の鄭泉を使者に、白帝城にいる劉備の元へ訪れ、呉と蜀は再び同盟を結び、魏との縁を断ち、呉蜀協力して魏を倒そうと行くことで合意した。
 黄龍元年(229)、孫権は蜀帝劉禅の承諾を得て、呉帝国を建国、建業に遷都し、建業はそれ以後六朝時代の文化の中心となる。
 戦の舞台が、漢中長安間に向けられている中で、孫権もたびたび合肥などに進出するが、大きな戦功を上げることもできなかった。
 一方で、黄龍二年(230)、将軍衛温と諸葛直に夷州、亶州を捜索させ、始皇帝が不老長寿の薬を探すために派遣した徐福が住み着いたという島を探すよう命じたが、彼らは結局見つけることが出来ず、夷州から捕虜数千人を連れて来ただけであった為、孫権は彼らを捕虜にし、誅殺した。
 五丈原において、蜀の丞相諸葛亮が没すると、誰の目から見ても、蜀の弱体化は明らかであった。そこで、孫権は遼東に独自勢力を築いていた公孫淵と同盟して、魏を挟み撃ちしようとして、使者二人を派遣するが、公孫淵は使者を殺し、その首を曹叡に送り、孫権の政策は失敗する。
 また、陸遜の後を継いだ諸葛瑾が没し、呉の人材不足も深刻になる一方で、赤鳥四年(241)、大志孫登が死去し、次男の孫慮は夭折していたので、三男の孫和を皇太子とした。
 しかし、一方で四男の孫覇を溺愛し、彼に孫和と同等の権力を与え、諸侯も孫和派と孫覇派に別れ、熾烈な争いを行う、二宮事変に発展する。
 孫和派の陸遜は、皇太子を不動の地位にすべきだと孫権に進言するが、孫覇派の讒言を受けた孫権は、陸遜の職を解かせ、陸遜は憤死する。
 その争いが熾烈になっていく中、ついに孫権はこの事変を決着させるため、孫和を廃し、孫覇を殺すという行動を行い、これにより、寵愛する潘夫人の子、孫亮が皇太子につく。
 それから、しばらくして、孫権は病の床につき、いよいよ臨終を迎えるとき、枕頭に太傅諸葛恪と、大司馬の呂岱を呼び、後事を託して崩御した。


 

 

 

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孫堅 文台  <ソンケン ブンダイ>
 
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出身:揚州呉郡
年:156〜191 (35歳死去)
諡号:武烈皇帝

 

 

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ピンイン:Sūn Ijān  Wèntái
所属:袁術→孫堅
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年:156〜191 (35歳死去)
諡号:武烈皇帝


 

 

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