三国志データベース

 

 
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司馬懿 仲達  <シバイ チュウタツ>
 
ピンイン:Sīmă Yì  Zhòngdá
所属:曹操、魏
出身:司隷河内郡温県
年:179〜251 (72歳死去)
諡号:高祖宣帝


 司馬懿は、漢朝の尚書右丞である司馬防の次男として生まれた。兄弟8人は、全員字に「達」の文字がついていたことから、「八達」と呼ばれる秀才ぶりで有名であった。
 兄の司馬朗が曹操に仕えると、司馬懿も曹操に招かれたが、彼は告辞した。だが、招賢令をだすほど人材集めに躍起であった曹操は、もし応じない場合は、捕縛せよ、という命を知って、慌てて早々に仕官した。
 だが、曹操の代にあまり活躍することなく、無難な官位につく一方で、学問好きであった曹丕と特別に親しくなるようになり、また同じように曹丕と親しかった、陳羣、呉質、朱鑠とともに、曹丕の「四友」と呼ばれた。
 後に曹操が逝去し、曹丕が後継者として即位すると、司馬懿は時の後漢皇帝献帝から、帝位禅譲を受けるという功績を得る。
 曹丕が帝位に就くと、司馬懿は次第に曹丕に重用されるようになり、魏の政府の中での中枢で、政務を総裁するようになる。
 その後、すぐに劉備崩御の知らせが入り、曹丕がすぐにでも蜀を討とうとするが、司馬懿は蜀には諸葛亮を始めとする諸将や兵士が数多くいるのでこれに反対し、逆に自勢力の兵力を全てに使わず、五つのルート(鮮卑、南蛮、呉、孟達軍、曹真軍)から蜀を攻める策を立案し、曹丕もそれを実行する。
 やがて、曹丕の死の目前、枕元で陳羣とともに二代目皇帝曹叡を守り立てるよう、後事を託される。
 しかし、曹叡の代になると、驃騎大将軍として軍事の面で活躍するようになり、このとき幼帝曹叡に、西涼の太守にしてくれるよう懇願する。これは、蜀の北伐に備えるためであったが、周りには変な目で見られ、それを知った蜀の参謀、馬謖は、諸葛亮に、司馬懿に叛心があるよう魏に見せ掛け、司馬懿を更迭するような策を進言、諸葛亮はそれを実行した。
 まだ、幼帝であった曹叡は、その馬謖の策にのり、西涼で軍備を整え洛陽に攻めてくると誤解し、司馬懿を更迭する。
 だが、その後諸葛亮が北伐を決行すると、魏の最高司令官として任命された曹真は大敗を喫し、長安をとられるという危機に直面した。
 そこで、魏の鍾繇は、魏帝曹叡に、司馬懿を呼び戻すよう進言し、それに曹叡も了解し、司馬懿は大司馬として、大将軍曹真とともに、諸葛亮を迎え撃つ。
 だが、ほどなくして曹真は発病により戦線を離脱し、軍の最高責任者として諸葛亮と相対することになるのは、蜀の天水攻めからとなる。
 しかし、蜀は度重なる北伐ともに食糧不足に嘆き結果をあげることができず、司馬懿も魏政府に対して不戦を方針を伝えたので、司馬懿が軍を動かすことは少なかった。
 ただ、一度だけ五丈原で対陣し、諸葛亮から婦人服を送られたときは、怒りの余り挑発に乗りそうになったが、皇帝から出兵の許しが出なかった。その頃、司馬懿は情報を利用して、日々休む間もなく働く諸葛亮の状態を聞いて、諸葛亮が間もなく倒れると予期した。
 そして、その予期どおり、五丈原で諸葛亮は病没、それを察知した司馬懿は、後退する蜀軍を追撃するが、諸葛亮が遺した策により追撃を諦め、軍をまとめて五丈原から撤退した。
 司馬懿は諸葛亮の軍から長安を守ったことにより太尉に昇進、次に遼東で起きた公孫淵の反乱鎮圧に出兵する。
 乱平定直後、魏帝曹叡は病に伏し、司馬懿と曹爽(曹真の子)の二人で、三代皇帝曹芳を補佐するよう後事を託し、崩御する。
 その後、司馬懿は曹爽によって太傅に任ぜられ、政治で口出しをすることが出来ず、司馬氏と曹氏の間で敵対するようになる。
 その頃、呉の朱然率いる軍勢が樊城を包囲したという報が入り、司馬懿は兵を率いて朱然軍を撃破し、またその後、諸葛恪の軍勢を破ったという功績を挙げたのに対し、蜀漢討伐に向かった曹爽は敗北した。
 軍事的にも政治的にも曹爽の能力を認めなかった司馬懿は、政敵曹爽の排斥をたくらんだ。曹爽が一族とともに狩に出かけている間に司馬懿が兵を率いて宮中に入り、自分のクーデタの大義名分を説明し、曹爽は帝を蔑ろにして、私利私欲な政治を行ったとして、一族郎党を処罰し、司馬懿は丞相として魏の実権を握るようになった。
 しばらくして、司馬懿は病に伏すようになる。彼は、曹操や周の文王のように帝位に就こうとはせず、息子や孫の世代の課題と決め、その後死亡し。魏の権力は子の、司馬師、司馬昭へと引き継がれた。

 

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司馬師 子元  <シバシ シゲン>
 
ピンイン:
Sīmă Shī  Zĭyuán
所属:魏
出身:司隷河内郡温県
年:208〜255 (47歳死去)
諡号:武公→世宗景帝


 司馬師は司馬懿の長男として生まれ、魏の曹叡のときに、散騎常侍、ついで中護軍となった。
 父、司馬懿が対蜀のために遠征したときには、弟司馬昭とともに従軍し、一時諸葛亮の策により司馬親子死の危険も味わった。
 後の曹爽排斥の際、司馬懿と協力して、曹爽を排斥することに成功し、それ以後、魏の実権は司馬懿と、息子司馬師、司馬昭のものとなった。
 姜維による第一次北伐で彼が郭淮に破れ、わずかな手勢を率いて陽平関まで退いたとき、司馬師の軍が立ちはだかる。司馬師は、父と魏帝曹芳との協議により、姜維の息の根を止めるために陽平関へとやってきたのだが、姜維軍の連弩隊に破れ、撤退する。
 父がなくなった後は大将軍などの重職を歴任、その頃呉の孫権や諸葛瑾などが次々と死亡し、これを好機とみた司馬師は、弟の司馬昭に兵を率いさせ、呉征伐に向かわせたが、諸葛恪の軍に敗北を喫する。
 そこで司馬師は部下の意見を聞き入れ、蜀の攻撃に備えつつ、呉の兵糧が尽きるのを待つ作戦を取り、見事諸葛恪の軍を打ち破った。
 後に、魏朝廷内にて、司馬兄弟の権力拡大と専横を恐れる声が起こる。中でも、夏侯玄や張緝、李豊らは、共謀して司馬師を誅殺しようと企んだ。 しかし、陰謀は発覚し彼らは三族皆殺しという極刑に処した。
 政敵を消し去った司馬師は、今度は曹芳を後宮で遊びほうけて、君主として適していないとして廃して、新たに曹髦を帝位に就ける。
 だが、これに対して毌丘倹は文欽とともに寿春で反乱を起こす。司馬師は当時目の左下にあった瘤の手術を終えて療養中であったが、鍾会の進言で、自ら兵を率いて毌丘倹らの反乱鎮圧へと向かう。
 司馬師はケ艾に命じて寿春を攻撃しようとしたが、ケ艾が到着せぬ間に文俶(文鴦)の軍勢が司馬師陣営に押し寄せ、それに興奮した司馬師の瘤が避けて、そのまま伏せこんだ。
 文俶の軍を撤退させることには成功したものの、病状は安定せず、弟司馬昭を呼んで「大事は人に託してはならぬ。必ず一族を滅ぼすゆえに」と叫んで死亡した。

 

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司馬昭 子上  <シバショウ シジョウ>
 
ピンイン:Sīmă Zhāo  Zĭshàng
所属:魏
出身:司隷河内郡温県
年:211〜265 (54歳死去)
諡号:文王→太祖文帝


 司馬昭は司馬懿の次男として生まれ、兄と同じように、曹叡の時代に新城郷侯に封じられた。
 兄と同様に父の蜀北伐に対抗するために出兵し、兄とは違い父の策略家としての才能を受け継ぎ、諸葛亮の空城の計を見破っている。
 司馬師が魏政府で実権を握っていくのと歩調を合わせて官位も昇進する。
 孫権死後、兄の命により呉征伐の総司令官となったが、諸葛恪に大敗し兄に責任が問われると代わって自分の爵位を返上している。その後に蜀の姜維の北伐を防ぎ、爵位も取り戻す功を挙げている。
 兄の病死により家督を継ぐと、大将軍に任命される。この頃には、父、兄の努力が実を結び、魏朝廷で司馬氏の地位は磐石なものとなっていた。
 また、皇帝からは剣を帯びたまま皇帝に謁見することを許され、それはまるで後漢献帝時代の曹操に比類する権力を握っていた。
 そして、いよいよ父、兄が準備を進めてきた帝位簒奪という行為のために行動していくようになる。
 司馬昭は腹心の賈充に命じて、天子に忠誠を尽くしていて、後々の司馬氏による政権樹立のときに反対勢力となる、寿春の諸葛誕を挑発して、諸葛誕はその挑発に乗って呉と共謀して反旗を翻す。司馬昭は天子を擁して諸葛誕討伐に向かい、それを撃破した。
 諸葛誕の乱を平定し、ますます司馬昭の権威が上がってくるようになると、聡明な皇帝であった曹髦は、自ら司馬昭を誅殺しようとして挙兵するが失敗して死亡する。
 次の皇帝として幼少の陳留王・曹奐が即位し、司馬昭は曹奐に相国、晉公の位をもらった。もう、魏は風前の灯であり、腹心賈充らは、司馬昭に帝位に就くように進めたが、司馬昭は「魏の武帝が、漢の帝位を譲り受けなかったのと同じだ」と答えた。
 そして、司馬昭はついに蜀討伐へと乗り出す。ケ艾と鍾会に全権を与え、そして、蜀討伐に成功、曹奐から晉王の位を譲り受けた。
 司馬昭は、降伏した劉禅の自分の家に招き酒宴を催すと、劉禅はとても楽しそうな様子であり、蜀の忠臣であった郤正が「もう少し悲しそうな顔をしてください」と懇願して、劉禅は司馬昭に悲しい顔を見せようとするが、涙が全くこぼれず、司馬昭は「これでは、たとえ諸葛亮が生きていても、結果は同じであった」と嘆息した。
 そして、いよいよ最終段階に入ろうとした矢先に司馬昭は急死した。

 

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司馬炎 安世  <シバエン アンセイ>
 
ピンイン:Sīmă Yán  Anshì
所属:魏→晉
出身:司隷河内郡温県
年:236〜290 (54歳死去)
諡号:世祖武帝


 司馬炎は、司馬昭の長男として生まれた。容貌は優れ、立っていても地面に届くほど長い髪を持った持ち主であり、手は膝まで届いたという。
 当初、父司馬昭は、性格的に豪胆であった司馬炎よりも、温和でやさしい次男の司馬攸を世継ぎにと考えていたが、重臣たちがこれをいさめるので、それに従い司馬炎は、司馬昭の死後家督を継ぐことになる。
 家督を継いだ当時、すでに司馬氏による政権交代の準備は完璧な状態であった。そして、司馬炎は帝位簒奪に乗り出す。
 ある日司馬炎は剣を佩いたまま宮中に入り、魏帝曹奐に対して「魏の天下が保たれているのは誰のおかげだ?お前には文武ともに優れず、天下の主にふさわしくない!」と叫んだ。それに対して黄門侍郎であった張節が、司馬炎に「簒国の賊」であると罵り、怒った司馬炎は「無礼者!」と叫んで、部下に命じて張節を棒で殴り殺させた。
 曹奐は恐れおののいて、重臣たちとどうすべきか話し合った。その重臣の中には、司馬炎の腹心賈充もいて、賈充は、「帝位を譲るべきだ」ととくので、曹奐も帝位禅譲を決意した。
 曹奐は、受禅台を築き、帝位禅譲の儀式を執り行い、こうして魏は滅び、新たに晉が建国された。
 司馬炎は、民への負担を減らし、また、泰始律令を制定、これが、後に隋、唐の律令制度へとつながった。
 また、司馬炎は皇族を各地に王として派遣し、軍権などの大権を与えた。これは、かつて魏は皇族の権力が弱く、それが原因で魏王朝は滅びたので、それを防ぐためであったが、これが後に八王の乱を引き起こした。
 そして、司馬炎は中国大陸統一へと動き出すことになる。当時、蜀は併合したものの、呉はいまだに健在であり、今は暴君孫皓が統治しており、しかもその孫皓は陸抗を襄陽に派遣した、という報が司馬炎のもとに入る。
 司馬炎は重臣たちの意見に従い、羊祜を襄陽に派遣、羊祜に陸抗の進攻を防がせている間に、呉に政変が起これば、呉に進攻しようと目論んだ。羊祜と陸抗は互いの様子を見て対峙していたが、それに焦れた孫皓が陸抗を左遷し、羊祜は「今こそ、呉を討つべきである」と司馬炎に書状を送り、司馬炎もその気になるが、重臣たちの諌めで攻撃を見送ることになる。
 だが、今度は羊祜が病を患い、引退を懇願、司馬炎はそれを承知し、羊祜の遺言により、羊祜の後任を杜預とした。
 杜預は司馬炎に呉討伐の進言を行い、今度も賈充らの反対があったが、司馬炎はこれを却下し、ついに呉討伐へと乗り出す。
 杜預の軍は、まさに破竹の勢いで呉軍勢を次々と打ち破り、ついに大陸統一という大事業を成し遂げた。
 司馬炎は呉を滅ぼしたのと同年に、占田法、課田法という二つの土地に関する法を制定し、その後課田法は、魏で行われた屯田制を手本とし、後に北魏の均田制へとつながった。
 また、北方異民族対策も講じていなかったことから、八王の乱の後は、いわゆる五胡が華北へと侵入し、西晋王朝崩壊へとつながった。
 さらに、司馬炎は部類の女好きであり、天下がまだ統一されていないとき、自分の好みであった女性五千人を後宮に入れ、呉を討伐した後には、孫皓の後宮にいた女性五千人も、自分の後宮に加えた。
 統一するまでは、名君といわれた司馬炎であったが、天下が統一されると、その名君ぶりはどこかに消えて、ちゃんとした政治を行おうとはせず、また、陳羣によって始められた、九品中正法によりいわゆる門閥貴族が台頭し、賄賂が横行し、宗室司馬亮と、外戚楊一族による権力闘争が勃発し、さながら、後漢の桓帝、霊帝のようであった。
 そのような暗雲の中、司馬炎はついに崩御する。このとき、司馬炎は後継者として、暗愚であった司馬衷(恵帝)を指名し、また、それも晉朝崩壊へとつながるのである。

 

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司馬朗 伯達  <シバロウ ハクタツ>
 
ピンイン:Sīmă Lăng  Hăidá
所属:曹操
出身:司隷河内郡温県
年:171〜217 (47歳死去)
諡号:――


 司馬朗は、京兆の尹、騎都尉を務めた司馬防の長男であり、後の晉の宣帝司馬懿の兄に当たる。若いころ、経書の試験を受けて、童子郎の位に就いた。
 董卓が天子を奉戴して、長安に遷都したころ、父司馬防は治書御史をしており、董卓に付き従って長安に移住しなければならなかったが、董卓の周りの情勢が不安定であったことから、司馬朗に命じて、家族を郷里の県に帰そうとした。
 だが、このことを密告するものがいて、司馬朗らは長安へと引き戻された。そこで、司馬朗は董卓のもとで権力を握っていたものたちに賄賂を贈って、長安を脱出し、郷里へと戻った。
 司馬朗は、郷里の者たちに、董卓と連合軍との戦いで、自分たちも義兵を上げるため、東は黎陽に向かおうと言ったが、付き従ったのは、後に晉の驃騎将軍となる趙鄷の父である趙咨の家族だけであった。
 だが、連合軍は互いに結束することは無く、軍兵を放って略奪を行い、人民の半数が殺され、そして、その後連合軍は解散、董卓も呂布によって殺された後は、曹操と呂布とが濮陽で対峙した。
 司馬朗は家族を引き連れ、故郷である温県へと向かったが、ここで大飢饉が勃発し、人が人を食うという悲惨な事態となった。だが、司馬朗は家族をいたわり、若者に教育し、仕事をきちんと執り行っていた。
 司馬朗、二十二歳のときに、曹操に召しだされて堂陽の長となった。司馬朗の行政は寛大であり、これに民衆も答えて、禁令を犯さなかった。
 その後、昇進し丞相主簿となった。司馬朗は、このように戦乱の時代になったのは、秦の時代に、郡や国に兵力が無かったためであったため、今こそ州や郡に兵力を置き、四方の敵に対抗するべきであると進言し、また、現在はかつて土地を持っていた地主は散り散りになり、土地は国有地であったことから、周代に行われた井田の制度(900畝の正方形の土地を九等分にし、中央以外の八箇所を私有地とし、中央は公有地として、協力して耕す制度)復活を進言した。
 兗州の刺史に昇進し、政治と教化は十分にいきわたり、民衆たちは彼をたたえ、また、彼が軍の行動に参加しているときは、つねに粗末な服に、粗末な食べ物で、質素な態度で部下を導いた。
 建安二十二年(217)、夏侯惇や臧覇とともに呉を討伐するため、従軍した。だが、居巣あたりで、兵士たちの間で疫病が流行し、司馬朗は自身で兵士たちに薬を与えたが、司馬朗にも感染し、そのまま亡くなった。

 

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