魏の血筋

 


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曹昂 子脩  <ソウコウ シシュウ>

ピンイン:Cáo Áng  Zĭxiū
所属:曹操
出身:豫州沛国譙県
年:?〜197 (??歳死去)
諡号:悼王→愍王


 曹昂は曹操の妾である劉夫人の子供であるが、劉夫人が早くに逝去したので、当時の曹操の正妻であった丁夫人に育てられ、曹操の長男として育った。
 二十歳のとき孝廉に推挙され、後に曹操につきしたがって、南方遠征として、張繍攻撃に従う。
 その張繍はすぐに曹操に降伏するが、叔父である張済の未亡人であった鄒氏に曹操が手を出し、怒った張繍は、賈詡らとともに曹操に反旗を翻す。
 夜、闇にまぎれて夜襲をかけ、乱戦の中で典韋、叔父の曹安民が死亡し、曹昂は曹操をつれて、何とか宛城から脱出する。
 しかし、曹操の乗馬であった絶影が攻撃を受け走れなくなり、曹昂は代わりに自分の馬を差し出し、代わりに彼自身はその場に踏みとどまる。
 曹操への追い討ちを防ぐため、追っ手を攻撃するが、矢を浴び絶命する。
 このことが原因で、丁婦人は曹操の元からはなれ、代わりに卞夫人が曹操の正妻となった。


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曹彰 子文  <ソウショウ シブン>

ピンイン:Cáo Zhāng  Zĭwèn
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:?〜223 (??歳死去)
諡号:威王


 曹彰は曹操と卞氏との間の子供であり、曹丕の弟、曹植の兄に当たる。
 若いころから弓術や馬術を得意とし、筋力は人並み以上あり、自ら猛獣と格闘することを好んだ。
 曹操の遠征にたびたび付き従い、激しい気性を示し、また、曹彰の顎鬚が黄色であったため、周りから「黄鬚児」と言われた。
 曹操は、あるとき曹彰を気性の激しさを抑えるため、曹彰に「お前は書物を読んで、聖人の道を慕うことを考えないで、馬に乗り剣術することを好んでいるが、それは匹夫が行うことであって、どうしてそれをほめることが出来よう」というと、曹彰はそれに対して「男子はひたすら(前漢の時代、匈奴征伐で活躍した)衛星や霍去病を見習い、充満の騎兵を引きつれ、砂漠を馳せ周り、蛮族を攻め立て、功績を挙げて称号をもらうべきだ」と答えた。
 西暦218年、勃海地方にいた烏丸族が反乱を起こすと、曹彰は曹操に北中郎将を免じられ、烏丸討伐に向い、烏丸族を散々に破り、またこれに恐れおののいて鮮卑族の有力者であった軻比能は曹操に降伏した。
 その後、烏丸を平定した曹彰は、越騎将軍を代行し、長安に滞在し、また曹操が漢中を巡って劉備と田戦った際には、劉封、呉蘭を一騎打ちで破る。
 しかし、曹操が死亡すると、手勢を率いて洛陽へと上る。勝手に曹操の世継ぎとなった曹丕への反抗であったが、参謀の賈逵に諭され、撤退した。
 その後、223年、病により死亡した。


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曹植 子建  <ソウショク シケン>

ピンイン:Cáo Zhí  Zĭjián
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:192〜232 (40歳死去)
諡号:思王


 曹植は曹操と卞皇后との間に生まれた子供で、夭折した曹昂を除くと、曹操の三男に当たる。
 わずが十歳あまりにして、『詩経』・『論語』・『楚辞』など十万時を暗誦し、文章を作るのが得意だった。その文章を見て曹操があまりの出来に「人に頼んだのか?」と尋ねると、「言葉が口について出れば議論になり、筆を下ろせば文章となります」と答えた。
 そのころ調度、鄴に築いていた銅爵台が落成し、曹操は息子たちを落成式に連れて行き、詩を作らせたが、特に曹植の詩は大変優れていて、曹操はこれに感心した。
 だが、性格は大雑把で、細かいことに拘らず、意義を整えず、車や服装は華美を尊ばなかった。
 また、曹操が彼に難しい質問をしても即答し、曹操は大変可愛がり、若くして平原侯に取り立て、何度も自分の世継ぎにしようかと迷っていた。
 しかし、自制心に富み、節度を尊ぶ曹丕に比べて、嫌いの飾り気の無い生活と飲酒癖があり、あるときは泥酔して天子専用の道路を横断したり、また樊城で関羽の攻撃を受けた曹仁の救援の命令が下ったとき、泥酔して応じることが出来ず、それをみた曹操は、世継ぎにするのには不適当だと察知した。
 曹操が死に曹丕が即位すると、曹植はこれに反発した。が、曹丕によって腹心であった、丁儀、丁[广異]が殺され、また曹植自身も曹丕の前に引きずり出され、殺すよう命じられる。
 しかし、卞皇后の嘆願で、曹丕は「七歩歩む間に詩を作れば命を助けよう」と命じる。
 曹植はこの命を見事に達成し、曹丕に命を奪われることは泣く、身分を格下げされ、その後不遇のうちに死亡した。
 また、曹植は曹丕の正妻である甄氏に好意を寄せていたらしく、それが結果として、曹丕と曹植との確執を招いたようである。


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