三國志データベース

 

 
 
INDEX → 三國志データベース → 人物/魏 → 張遼

張遼 文遠  <チョウリョウ ブンエン>
 
ピンイン:Zhāng Liáo  Wènyuăn
所属:丁原→董卓→呂布→曹操、魏
出身:并州雁門郡
年:169〜222 (53歳死去)
諡号:剛侯


 張遼は若い頃、その腕を見込まれ、并州刺史である丁原の配下となり、その後丁原が入京すると従者として都入りをする。
 さらにその後呂布が董卓の配下となり丁原を殺すと、張遼は呂布の従って董卓の配下となり、さらにその後董卓が死亡し、呂布が放浪するとそれに従い、騎都尉に任命された。
 呂布軍内では同じく丁原期からの将、高順とともに呂布軍の片翼を担い、曹操や劉備が呂布を討伐した際、その力を見せ占めた。
 そして、呂布が白門楼で敗北し捕らえられると、張遼も同じく捕らえられた。呂布は曹操や劉備に命乞いをするが拒否されてしまい、呂布が両者に罵声を吐くと、隣にいた張遼が「見苦しいぞ、呂布」といって、呂布も観念し、縊り殺される。
 その後曹操が張遼も処刑するようにと任命したところ、劉備と関羽が取り成し、救われ今後は曹操の配下として働くようになり、その後の呂布残党である昌豨を降伏させたり、袁家征討の河北遠征などに功績を挙げている。
 またそれ以前に劉備が徐州で反乱を起こし、張遼は関羽捕縛の任務を仰せつかると、関羽を説得して一時ではあるが曹操軍に降伏し、曹操軍の武将として袁紹と戦った。
 赤壁の戦いの後、呉との最前線要所である合肥防衛の任務に当たり、呉の兵士十万がそれを包囲した。張遼はそのほかに李典、楽進とともに合肥を守っていたが、三人はともに仲が悪かった。
 だが張遼は選りすぐりの兵8百を率いて孫権軍本陣を急襲。孫権は危うく命を落としかけた。その張遼軍の攻撃はすさまじく、張遼が来ると「遼来々!」と叫び、兵士たちは慌てて逃げるほどであった。
 またそれ以後、張遼の武名が大陸各地に広まり「張遼の名前を聞けば、泣く子も黙る」とすら言われ、また襲われた孫権自信も「曹操には張遼がおり、わしには甘寧がいる」と孫権麾下の猛将である甘寧と比べるほどであった。
 合肥の戦い、また濡須の戦いの後も対孫権軍との隊長として合肥城に駐屯し、孫権軍に睨みをきかせた。
 晩年(曹丕が帝位に就くころ)張遼の病気療養中に呉軍がその知らせを聞き合肥に急襲する。張遼はその病の身をおして自ら出陣し、呂範を打ち破るも病気がもとで死亡した。
 なお演義においては、曹操が死に曹丕が帝位に就くと、曹丕は自ら呉討伐のため遠征を開始。その戦いは大敗北に終わり、張遼も敗走中に丁奉の矢を腰に受けて、その矢傷がもとで死亡した。

 

 <人物/魏へ戻る>

 

 INDEX → 三國志データベース → 人物/魏 → 楽進

楽進 文謙  <ガクシン ブンケン>
 
ピンイン:Yuè Jìn  Wènqiān
所属:曹操
出身:冀州陽平郡
年:?〜218 (??歳死去)
諡号:威侯


 楽進は曹操が董卓打倒の兵を挙げた際に真っ先にこれに応じた。小柄ながら豪胆な性格であり、曹操の記録係となる。
 後に故郷で募兵を行い、千人あまりを集めた功績により、部将に任命され、その後戦闘で活躍する。
 弓を得意とし、濮陽で呂布と戦った際には、呂布軍の部将成廉を、北伐では袁譚の武将、郭図を射殺すという活躍を見せる。
 また官渡の戦いにおいては、袁紹軍の食糧倉庫烏巣を攻撃し、将軍淳于瓊を倒し、于禁、張遼と並んで、曹操にその将としての素質を讃えられる。
 赤壁の敗戦の後、荊州平定のため陽擢、さらに襄陽に派遣され駐屯。関羽・蘇非らを攻撃して打ち破り、南郡の山々にいた蛮民たちをも降伏させた。さらに劉備配下の長杜普・梁大を討伐した。
 その後曹操に指揮権の象徴である『節』を与えられ、張遼らと合肥を守って孫権軍と戦い、そのとき孫権に切りかかったところへ立ちふさがった敵将、宋憲をまた射殺している。
 その後合肥の戦いにおいて、孫権と戦う際、楽進は籠城作戦を提案するが、張遼と李典はこれに反対し、出撃したので楽進もこれに従う。
 戦自体は大勝利に終わったが、楽進は孫権軍の武将淩統との一騎打ちのとき、甘寧の放った矢を顔面に受け、戦線を離脱する。
 彼の立てた功績を曹操は評し、彼の息子楽綝が列候に取り上げられ楽進自身も右将軍に昇進したが、後に病死した。

 

 <人物/魏へ戻る>

 

 INDEX → 三國志データベース → 人物/魏 → 于禁

于禁 文則  <ウキン ブンソク>
 
ピンイン:Yú Jìn  Wènzé
所属:曹操
出身:兗州泰山郡
年:?〜221 (??歳死去)
諡号:詞


 于禁は済北の牧、鮑信のもとで黄巾賊討伐に参加した。
 曹操が兗州を掌握すると、仲間たちと曹操軍に参加し、弓馬が秀でているのを認められて、点軍司馬に任命される。
 張繍の攻撃を受けたとき、略奪を働いた夏侯惇隊の兵士を鎮撫させたため、于禁は反乱を企てているという誣告を受けるが、その後の数々の合戦の功績により、その疑念は晴れた。
 曹操軍内部においては、徐晃と共に先鋒を務める将の一人に数えられ、また張遼や楽進、張郃などと並ぶ名将として、地位を得ていく。
 その後赤壁の戦いに参戦し、周瑜の策略により、水軍都督であった蔡瑁と張允が曹操によって処刑されると、代わって水軍都督に任命された。
 だが今度は諸葛亮の策により、矢十万本を持ち去られるという失態を犯してしまい、さらの赤壁の戦いにおいても、孫、劉連合軍に大敗北を喫してしまう。
 また潼関の戦いでは、馬超と一騎打ちに及んだが戦わずにただ逃げるだけ。
 樊城の戦いでは、水攻めに遭い敗北すると関羽に降伏し、命乞いをし、関羽はただただ呆れるだけで、投獄し、また于禁降伏の知らせを聞いた曹操も、思わず嘆息した。
 後に釈放され、死んだ曹操の廟を訪れると、その壁画の中に、于禁が関羽に命乞いをしている絵を見つけ、恥と怒りのために発病し、そのまま亡くなった。

 

 <人物/魏へ戻る>

 

 INDEX → 三國志データベース → 人物/魏 → 張郃

張郃 儁艾  <チョウコウ シュンガイ>
 
ピンイン:Zhāng Hé  Jùnài
所属:袁紹→曹操、魏
出身:兗州河間郡
年:?〜231 (??歳死去)
諡号:壮侯


 張郃は黄巾党の乱の際義勇軍を立ち上げ功績を上げ、その後冀州を治める韓馥の部下となり、その後韓馥の兵力が袁紹軍に併合されると、袁紹軍の武将となり、公孫瓚との戦いで活躍した。
 官渡の戦いにおいて、高覧と共に先鋒を務め、曹操の本陣を攻めるが大敗。袁紹軍の軍師であった許攸が曹操に寝返り、それを機に、袁紹軍の食糧倉庫である烏巣奇襲すると、張郃は烏巣への救援を袁紹に進言するが聞き入れられず、さらに郭図の讒言に遭い、仕方なしに高覧とともに曹操軍に帰順し、袁紹軍の配下である勇猛な武将が抜けたことと、烏巣にある兵糧が燃えたことで、兵の士気が低下し、大敗北に喫した。
 それ以後は、官渡の戦いの事後処理に当たる、河北平定戦や、対馬超戦に参加し、功績を収める。
 張魯との戦いでは五千の兵を率いて先鋒を務め、見事張魯を降伏させる。
 漢中の戦いでは、総司令官であった夏侯淵が戦死すると動揺する軍を収拾させ、軍を引き締め、曹操軍本隊到着まで、堪える。
 曹丕の代に左将軍に任ぜられ、魏軍随一の名将として、司馬懿とともに諸葛亮の北伐に参加する。街亭 の戦いでは馬謖軍を破る。
 戦場にあっては、状況や地形を把握し、臨機応変な用兵ぶりを見せ、諸葛亮もその実力を認めるほどであった。
 [示β]山の戦いで、退去する蜀軍を追撃せよとの司馬懿の命令に異論を唱えるが、要望を叶えることができず追撃し、蜀軍の伏兵に射られ絶命した。

 

 <人物/魏へ戻る>

 

 INDEX → 三國志データベース → 人物/魏 → 徐晃

徐晃 公明  <ジョコウ コウメイ>
 
ピンイン:Xú Huăng  Gōngmíng
所属:楊奉→曹操、魏
出身:司隷河東郡
年:169〜228 (59歳死去)
諡号:壮侯


 徐晃は始め、楊奉に従って黄巾賊討伐に名を上げていた。その活躍で騎都尉に任命され、その後も楊奉の配下として付き従った。
 その後楊奉が董卓の部下となり、さらにその後李[イ寉]、郭らに付き従い、それにも付き従い、その後帝が長安から脱出した際、楊奉とともに帝の護衛を行い、帝を洛陽まで送った。
 だが楊奉が曹操によって滅ぼされると、曹操は徐晃の武名にほれ込み、傘下に加え、その後は曹操陣営となる。
 官渡の戦いにおいては、袁紹軍の食料が大量においていた烏巣に奇襲を行い、袁紹軍が官渡の戦いで負ける要因を築いた。
 それ以後は、荊州討伐戦など曹操軍の数々の戦に参加し、樊城での戦いでは、敵軍中に見方を入り込ませてそれを破り、危中であった曹仁を救出している。
 性格は慎ましくて慎重であり、その戦いぶりは万が一の裴潜の備えを整えてから、初めて兵を動かすという手堅いものであった。
 戦勝祝賀において大宴会を催す最中、徐晃の陣営だけが生前としていて、兵士たちが陣に留まっているのを見て早々が「周亜夫の風格だ」と賞賛している。
 徐晃は、その後ひっそりと病死しているが、演義では、司馬懿が再び劉禅側についた孟達のいる新城を攻めた際、先鋒を申し出て、孟達に今すぐ降伏するよう差し向けたが、怒った孟達が矢を徐晃に向けて射り、額を割って、その夜に死亡した。

 

 <人物/魏へ戻る>

 

[PR]忍者システムズ無料ホームページweb制作アクセス解析