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郭嘉 奉孝 <カクカ ホウコウ>
ピンイン:Guō Jiā Fènxiào
所属:曹操
出身:豫州潁川郡
年:169〜207 (38歳死去)
諡号:貞侯
郭嘉は二十歳のときに司徒の役所に召しだされたが、彼はこの頃から天下が動乱することを予見していたため、氏名実績を偽って、俗世間から交際を絶っていた。
その後、董卓が倒れ群雄割拠の時代が訪れると、郭嘉はまず袁紹の元に身を寄せた。だが、袁紹は優柔不断で天下を治める能力はないと判断し、袁紹の元を去った。
丁度その頃、曹操の陣営では軍師であった戯志才が死亡し、荀ケがその戯志才の穴を埋めるため、郭嘉を推挙した。
曹操は郭嘉を招き入れ、袁紹について尋ねた。すると、郭嘉は袁紹には十の敗因があり、曹操には十の勝因があると言った。さらに袁紹を討伐するためにはまずは呂布を討つべきだと進言した。
曹操は、「予の大事を完成させてくれるのは、まことにこの男のみだ」と大いに喜び、また、郭嘉も「殿こそまことに私の君主だ」といって喜び、このとき、郭嘉は司空軍祭酒に任命された。
その後、荀攸や程cらと並ぶ参謀として数々の戦において献策を行い、曹操軍を勝利へと導いた。
世事に通じて、物事の理を理解していた郭嘉は、しばしば周囲の状況や敵の内情を分析して、曹操に示している。
また、呂布を三回にわたって退き、呂布が下邳城に閉じ篭って守備を固めたとき、曹操軍の兵士たちは疲弊していたため、曹操は一度帰還しようと考えた。しかし、これを郭嘉とともに荀攸が「呂布の気力が回復せず、陳宮の計略が定まらないうちに討つべきです」と進言し、曹操もこれを了承し、呂布を捕らえることができた。
その後、劉備が袁術討伐のためといって、許昌から脱出したとき、郭嘉は、劉備を放てば後々の災いになると曹操に進言し、曹操はその忠告に従って、徐州にいる車騎将軍車冑にそのことを伝えたが、劉備に殺されてしまった。
官渡の戦いの最中、江東で勢力をつけていた孫策が、曹操が許都を留守にしている間に、許都を襲撃しようと目論んだ。周りの諸将はどうしようかと戸惑っていたが、郭嘉は曹操に「孫策は必ず匹夫の手にかかり死ぬでしょう」と言った。結局、孫策は許貢の食客に殺された。
そして、曹操軍が勝利し、さらに袁紹が死亡すると、周りの諸将はこれを機に袁紹の残党を討つべきだと主張するが、郭嘉はそのお家騒動に付け込んで、袁譚と袁尚兄弟を討つ策を示し、さらにその後袁煕、袁尚が烏丸へ逃亡すると、曹操とともに従軍し、烏丸軍を打ち破り、その後袁煕、袁尚は公孫康に討たれた。
また、河北を平定すると、郭嘉は曹操に、青州、冀州、幽州、并州で名を知られた人物を多数招聘するよう進言し、曹操もそれを実行、後の招賢令へと繋がった。
郭嘉の深く計略に長じ、物事の真実を掴んでいた正確を喜んだ曹操は「奉孝こそ、わしの思うところを全てわきまえている」と行った。
北伐が終了して、柳城から帰還すると、郭嘉は危篤となり、その後逝去した。曹操は葬儀で荀攸らに「お前たちはわしと同年輩だが、郭嘉だけ若かった。わしが天下を平定したときは、彼に後事を託そうと思っていた。これが運命なんだなぁ」と言った。
曹操が後に赤壁の戦いで敗戦すると、「郭嘉さえいれば、こんなことにはならなかっただろう」と嘆いていたという。
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荀ケ 文若 <ジュンイク ブンジャク>
ピンイン:Xún Yù Wènruò
所属:曹操
出身:豫州潁川郡
年:163〜212 (49歳死去)
諡号:敬侯
荀ケの家系は代々官僚を輩出した名門の家柄であり、秀でた容姿と意義のある外貌をしていたため、何顒に「王佐の才あり」と評された。
初め、孝廉に推挙されて官吏となったが、董卓の乱が勃発すると官位を捨てて故郷へと帰還しようとした。だが、彼の故郷である潁川は洛陽から近いため戦火にあう可能性があると悟り、冀州の牧であった韓馥の誘いを受けていたので、それに了承して韓馥のいる冀州へと赴いた。
しかし、荀ケが冀州についてみると、すでに冀州は袁紹に乗っ取られており、韓馥は城外に逃亡しているという有様であった。袁紹は荀ケを賓客として迎えられていたが、袁紹が大した人物でないとわかると袁紹を見限り曹操の軍師となった。曹操は荀ケを「我が張子房(漢の高祖の参謀、張良子房のこと)だ」と喜んだ。
その後曹操の父曹嵩が殺され、曹操自ら徐州征伐に乗り出すと、荀ケは兗州の留守を任された。そして張邈と陳宮が謀反を起こすといち早くそのことを察知し、程cと協力して三城を守った。
その後、呂布らによって領土を奪われた曹操は憤って再度徐州を攻めると言い出したが、荀ケが「高祖や光武帝が天下を平定できたのは、自分の根拠地をしっかりと治めたからです。まず、曹操殿の根拠地である兗州をしっかりと治めるべきです」と言って曹操を諌めたので、曹操もこれに了承し、呂布と戦うことにした。
始めは曹操の参謀として曹操の戦に従軍していたが、その後裏方に回り戦略を練る役回りになり、呂布討伐の立案や、天子の奉戴と遷都、袁紹との戦いで兵糧の管理などを担当した。
また荀ケは数々の人材を曹操に推挙し、戯志才、荀攸、鍾繇、郭嘉など、大魏帝国を作っていく上で重要な担い手たちは、皆荀ケによって推挙された。
河北平定の後、曹操は荀ケを三公に任じようとしたが、実戦の経験がないということで、十数回も辞退した。
荀ケは儒教思想の中で育ってきたが、曹操が荊州討伐に乗り出す頃から、儒教排斥の信念が強くなり、孔子の子孫である孔融を処刑し、天下の名士を敵に回す一方で求賢令を出し、漢に次ぐ王朝の思想を考え出し、その思想は荀ケの思想とは相反対していた。
そんな中、董昭による魏公推挙運動が起こった。漢の中に新たな国「魏」ができるということに荀ケは反対したが、曹操を始めとするほかの者たちはそれに賛成する。
荀ケが、自分を魏公に就くことに反対したことを知った曹操は荀ケに対する信用は失い始めた。
その後曹操は荀ケに曹操討伐において参軍として従軍させたが、途中で病にかかり、寿春に残留し、そのまま漢朝の命運と曹操について考えながら、憂悶のうちに死亡した。
演義においては、寿春に留まった際、曹操から空の器を贈り、(つまり何も食べるな)と悟った荀ケはそのまま服毒自殺したという。
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荀攸 公達 <ジュンユウ コウタツ>
ピンイン:Xún Yōu Gōngdá
所属:曹操
出身:豫州潁川郡
年:157〜214 (57歳死去)
諡号:敬侯
荀攸は、荀ケと族子(荀ケの祖父と荀攸の曽祖父が兄弟であり、二人は従兄弟同士にあたる)が、荀ケより6歳年上である。
始め荀攸は漢王朝大将軍であった何進に召しだされて、黄門侍郎(中外の連絡に当たり、禁中に出入りして近侍し、尚書の事務を司る役職)に任命され、霊帝が死亡すると、何進とともに宮廷に入り、劉弁(少帝)を擁立した。
その後中常侍によって何進が殺され、董卓が入京した後も洛陽に残り、漢の臣として役目を負っていたが、董卓が長安への強制遷都の後、他の官吏らと謀って、董卓を暗殺しようと試みるも失敗に終わり、投獄されてしまう。
董卓が死ぬと、荀攸は獄から出て、蜀へ向かおうと思っていたが、途中荊州で留まっていた。
そして、曹操が許昌を都とし、帝を迎え入れると、荀ケは荀攸に曹操の参謀になることを勧め、荀攸はそれに従って曹操軍の参謀となり、曹操は尚書に任命した。
張繍、呂布討伐戦に従い、また白馬・官渡の戦いでは、顔良を討ち取るための策を関羽に授け、輜重隊を囮に敵軍を誘い出す計略を曹操に出し、曹操を喜ばせた。そして河北平定で功績を挙げて、中軍師の位を授かった。
荀攸は外柔内剛の人物であり、また思慮深く、またそれでいて奇策を編み出すとされているが、それは定かではない。鍾繇は荀攸と仲がよく、荀攸の著作集を編纂していたが、その間に鍾繇が死亡してしまい、その著作集も世に出ることがなかった。
だが、曹操は彼を『真の賢人』と呼んだ。
その後孫権を討伐中に死亡するが、それは荀ケと同じように漢王朝を敬い、その後魏公推挙運動に反対し憂悶のうちに死亡した荀ケと同等に、曹操が魏王になる際に反対し、曹操の怒りを勝って憂悶死とされている。
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程c 仲徳 <テイイク チュウトク>
ピンイン:Chèng Yù Zhòngdé
所属:曹操
出身:兗州東郡東亜県
年:141〜220 (80歳死去)
諡号:粛侯
程cは身長が八尺三寸(2メートル)近くあり、頬から顎にかけて立派な髭を生やしていた。
黄巾党の乱が勃発した際、東阿県の丞であった王度は、朝廷に背いて黄巾党に呼応し、県の倉庫を焼き払し、これに県令は城壁を乗り越え逃亡し、民たちは黄巾党のもとへと走った。
程cは人をやって王度を観察し、東阿の豪族、薛房と協力して東阿県を奪取し、県令を呼び戻し、王度を見事撃退することに成功し、民衆からの厚い信頼を得た。
もともと程cは本名を程立と言ったが、初平年間に、兗州刺史である劉岱の度重なる招聘を断り、曹操が兗州入りすると自ら曹操の配下となり、その際、程cが夢で泰山で日輪(大陽)を両手で支えるという夢をみたことを曹操に話し、曹操がそれは自分のことを程cが信じることだと言って「日を立てる」という意味で、立からcに改名させた。
その後張邈が呂布と通じて反旗を翻すと、荀ケとともに動揺する県令たちを落ち着かせ、徐州から帰還する曹操のために、三城を確保した。
袁紹との戦いの際は、たった七百の兵で甄城を守るという働きを見せ、また官渡の戦いで袁紹が敗北して退却する際、曹操に「十面埋伏の計」を提案し袁紹軍を壊滅に導き、その功績により、奮威将軍に任じられ、軍指揮官としての優れた能力をかね合わせていた。
さらに南征の際は、孫権と劉備の関係を予測したり、黄蓋による苦肉の策を見破ったり、赤壁の戦いの後の両者の関係の悪化、劉備の独立などを予測したりなど、かなりの判断力と洞察力をかね合わせていた。
赤壁の戦いの後は、、「充足を知れば恥辱を受けたくないもの」といって現役から退いた。
その後また曹丕が帝位に就くと現職に復帰し衛尉となるが、その後間もなく死亡し、車騎将軍の位を追贈された。
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賈詡 文和 <カク ブンカ>
ピンイン:Gŭ Xŭ Wènhé
所属:董卓→李[イ寉]→張済→張繍→曹操、魏
出身:涼州武威郡姑臧県
年:147〜223 (76歳死去)
諡号:粛侯
涼州に生まれた賈詡のその能力をあまり認められていなかった。そのような中、董卓が洛陽に上洛し、涼州が混乱に陥ると、賈詡は、董卓、牛輔、李[イ寉]、郭らの参謀として転々としたが、その後南陽の張繍に招かれて、軍師となった。
後に曹操が張繍討伐に出兵すると、賈詡は張繍に、偽装の降伏の話を持ちかける。張繍はそれに賛同し、曹操に降伏した。曹操は、張繍の叔父張済の未亡人鄒氏が絶世の美女だということで、虜になった。
それを好機だと思った賈詡は、胡車児に命じ、典韋を殺させ、曹操を殺そうと計画するが失敗。だが、典韋、そして曹操の第一子曹昂などを殺したことによる活躍は大きかった。
この頃から賈詡は張良、陳平(前漢始祖劉邦の参謀)に匹敵するといわれていた。
後に曹操と袁紹とが官渡で争うようになると、袁紹は張繍を招いたが、賈詡は戦いの結果を見越してか、敵である曹操のもとにいくことを進言。その後曹操の配下となった。
曹操は賈詡が配下となったことを大いに喜び、官渡の戦いで早速参謀として抜擢され、見事勝利を収めることができた。
その後郭嘉が死亡すると、曹操軍の中心的な軍師となり、南征や赤壁の戦いなどに従い、また馬超と韓遂が反乱を起こすと、地元であることもこうじて、「離間の策」によって馬超と韓遂との間を仲違いさせ、乱を平定させた。
さらに曹操が後継者問題について悩んでいると賈詡は、袁紹と劉表はともに嫡子を継承者としなかったため、内紛が起こったと話、遠まわしに曹丕が後を継ぐべきだと進言し、曹操はそれに従った。
曹操が死亡し曹丕が王位を継ぐと、華歆と謀って、帝を廃立し、曹丕を帝位に就かせることを画策し、受禅台を築かせ、曹丕を帝位に就けた。帝位に就くと、恩人である賈詡を重用し、太尉に任命した。
その後劉備が死亡すると、曹丕は今こそ蜀、そして呉を攻め滅ぼすべきだと行ったが、賈詡はまだその時機ではなく、両国の失策を待つべきだと進言したが、司馬懿が五次から蜀を滅ぼせばよいと進言し、曹丕はそれを採用したが失敗に終わり、その後呉を攻めたが、その際は赤壁の戦いに匹敵する損害を受けた。
その後魏初期軍師として最も長く生きた賈詡は、76歳という高齢で死亡した。
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