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夏侯惇 元譲  <カコウトン ゲンジョウ>
 
ピンイン:Xiàhóu Dūn  Yuánràng
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:?〜221 (??歳死去)
諡号:忠侯


 曹操の父親である曹嵩が曹家の養子に入る前、つまりは夏侯姓だったときの曹操の親族であるのが、夏侯惇と夏侯淵である。
 曹操と幼少をともにしていたが、夏侯惇が14歳のとき、自分の師匠を侮辱した人を殺し、世間から気性が激しいということで有名になった。そのことからもわかるように、夏侯惇は勇猛であり、曹操が旗揚げした当初から、部隊長として戦った。
 呂布討伐戦で濮城を攻めた際、左目に呂布軍の武将である曹性の矢を受け、その矢を引き抜いたとき、一緒に眼球を引き抜いてしまった。演義では、このとき「これは父の精、母の血をもらったもの。捨てるわけにはいかない」といってその目玉を飲み込んでしまい、矢を射た曹性を殺す猛将ぶりを見せる。
 これにより夏侯惇は隻眼となるわけだが、夏侯惇はそのことを酷く気にしていたらしく、同じく曹操軍の将軍として活躍していた夏侯淵と呼び分けるために、「盲夏侯」というあだ名が使われた。このあだ名を夏侯惇は怒り、鏡を見るたびに腹を立てて、鏡をたたき壊したという。
 その後、演義においては、夏侯淵とともに数々の戦に登場するが、負け戦が多い。
 劉備が新野にいる際に、諸葛亮が軍師となり、諸葛亮の友である徐庶は、諸葛亮は天才だから、気をつけなければならないと諭したが、夏侯惇はその徐庶の諌言を無視して、大軍を率いて新野へ向かった。
 だがその途中の博望坡で諸葛亮の火責めにあい、十万の大軍を失ってしまう。また、その後の赤壁の戦いでは、荀ケとともに許都を守った。
 性格は清廉で慎ましく、余分な財産は皆に分け与え、私腹を肥やすことはなかった。
 また曹操とは幼いころからの友だということもあって、特に信頼が厚かった。出かけるときは同じ車に乗り、寝室を出入りすることも自由であった。また曹操は夏侯惇に対して、「不臣の礼」(家臣として扱わず、友として扱う、特別扱いをして、魏の官爵を与えなかったが、夏侯惇が無理に願い出て、前将軍に任じられた。
 夏侯惇は晩年になると、曹操軍の重鎮として扱われるようになり、曹操が自ら征圧の際には、夏侯惇が首都の守護を行い、内政も行った。また、曹操が留守中に曹操の許可なしでも、夏侯惇が行政処理を行ってよい権限を得、内政に徹底するようになった。
 曹操が病気で、危篤に陥ると夏侯惇を呼ぶよう言われるが、夏侯惇もまた同じく病気をわずらい、曹操の死を見ることができなかった。
 その後曹丕が帝位につくと大将軍に任じられたが、その後曹操を追うように死亡した。

 

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夏侯淵 妙才  <カコウエン ミョウサイ>
 
ピンイン:Xiàhóu Yuān  Miàocái
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:?〜219 (??歳死去)
諡号:


 夏侯淵は夏侯惇と従兄弟(もしくは異母兄弟)であり、幼い頃から曹操らとともにした。またあるときは曹操の罪をかぶって、代わりに牢獄に繋がれたこともあり、曹操挙兵のときから、夏侯惇と同等に曹操からの信頼が厚かった。
 その後董卓との戦いでは、曹操とともに長安へ強制遷都をする董卓を追い、待ち構えていた董卓軍の部隊と戦うが大敗し、曹操とはぐれてしまう。
 必死の思いで曹操を探し、曹操が徐栄の餌食になる寸前に救出し、撤退している。
 官渡の戦いで袁紹軍が敗れると、兗州、豫州、徐州の兵糧を取り仕切り、その職務を全うした。また昌豨(しょうき)が反乱を起こすと、于禁とともに昌豨を攻め、降伏させる活躍を見せている。
 曹操が鄴に立てた銅雀台が落成すると、武芸を競う大会が開かれ、夏侯淵はこのとき自慢の弓術を披露。曹休、文聘、曹洪、張郃の四人が的に射た矢の中央に後ろを向きながら当てたという。
 その後、行われた涼州討伐では、朱霊らを率いて氐族平定で功績を上げ、韓遂旗本八将軍の一人である楊秋を降伏させた。
 また夏侯淵は「3日で500里、六日で1000里」と軍中でいわれるぐらい、奇襲を得意とし、馬超に攻められた姜叙の救援の際も、張郃を先鋒に出陣させ、大勝を得ることが出来た。
 張魯を征圧する際には、張郃と二手に分かれて陽平関を攻撃。張魯軍の客将であった龐徳を生け捕りにし、その後漢中を征圧すると、漢中の太守に任命される。
 夏侯淵はその後、曹操の義妹を妻に娶り、征西将軍に任命される。その間に、長安以西の領域を夏侯淵の力によって降伏させ、魏勢力の3分の1は、夏侯淵の功績によるものである。
 その後益州で力をつけた劉備軍と対峙することになる。定軍山においては、総司令官として劉備軍と戦い、劉備軍武将である陳式を生け捕るが、張郃の軽々しく攻めてはいけないという諫めを無視して出撃し、甥である夏侯尚が劉備軍に捕まってしまう。
 その後行われた人質交換で、黄忠が夏侯尚の背中に矢を射た。これに逆上した夏侯淵はすぐさま攻撃を仕掛けるが敗退する。
 その後もう一度打って出て、黄忠と一騎打ちとなるが、黄忠の薙刀で斬り殺された。
 その時、曹操は夏侯淵に手紙で「君の名前でもあるように、妙才せよ。軽々しく行動を行えば必ず仇になる」という手紙があったが、夏侯淵はこの手紙を気にせず戦ったため、悲惨な結果になってしまったのだ。

 

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曹仁 子孝  <ソウジン シコウ>
 
ピンイン:Cáo Rén  Zĭxiào
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:168〜223 (55歳死去)
諡号:忠侯

 曹仁は曹操の従弟に当たる。 曹仁の弟である文官肌の曹純が曹家の後を継ぎ、曹仁は若い頃から自分の思うままに生活を暮らしており、弓術や馬術を好み、黄巾党の乱が起きる前には、私兵1000あまりを率いて、泗水や渭水で幅を利かせていた。
 曹操が挙兵すると、配下となり、常に騎兵を率いて遊撃や先鋒の任務を請け負ったが、特に斬りこみ隊長として活躍した。その一方では、曹操の信頼が厚く、戦時において、よく有効な助言を行った。 
 曹操が献帝を奉じて許昌を首都にした際には、曹仁のこれまでの功績で広陽の太守に任命されたが、曹仁の勇気と知略を買っていた曹操は、太守に任命したものの、任地には赴かせず、騎兵隊の指揮官として、手元に置いた。
 曹操が宛城において、張繍の夜襲に敗北した際は、別働隊を率いて近隣の県を攻撃していたが、知らせを聞くと急行し、負け戦で戦意喪失した兵士たちに叱咤激励をし、何とか張繍の追撃を振り切った。
 しかし同じ従兄弟である、夏侯惇、淵、曹洪らと違って中々単独で部隊を率いることがなかったが、曹操に部隊を任せられると、今までの自分の好きなような生活をやめて、条文を(軍律)を持ち歩き、法規を重んじるようになった。 またその後の荊州平定では、劉備軍新参の軍師である徐庶と戦い、曹仁は八門金鎖の陣を敷くが、徐庶に見破られて大敗し、樊城を取られているが、その後の当陽の戦いでは活躍し、重要な役割を担うようになった。
 また、曹仁が江陵を守って、呉の周瑜と対戦したとき、部下の牛金が少人数の斬り込み隊を作り、周瑜の陣を攻撃した。だが圧倒的に兵士の数で勝っていた周瑜軍は、牛金の部隊を包囲した。
 それを見た曹仁は周囲の反対を押し切り、わずか数十騎を率いて敵の包囲陣に突入。見事牛金らを救い、江陵に凱旋した。それに対して将兵は「正に鬼人の再来だ」とその曹仁の勇気と部下を思う気持ちに感激し、周瑜と対峙し、見事呉軍を撤退させることができた。
 関羽が樊城を急襲すると曹仁は見事関羽を退却させる活躍を見せ、その後関羽を追い込んでいる。 曹操が王位につくと車騎将軍に任じられ、曹丕が帝位に就き、夏侯惇が死亡すると、夏侯惇の後を継ぎ、大将軍に任じられるが、その後逝去した。

 

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曹洪 子廉  <ソウコウ シレン>
 
ピンイン:Cáo Hóng  Zĭlián
所属:曹操、魏
出身:豫州沛国譙県
年:?〜232 (??歳死去)
諡号:恭侯


 曹洪は曹操の従弟に当たる。 幼い頃から、曹操や夏侯惇、淵、曹仁らとともにし、曹操からの信頼も厚く、曹操が挙兵すると、千人あまりの兵を率いて曹操に従い、曹操配下の武将となった。 
 曹操が反董卓連合の参謀となり、董卓が洛陽に火を放って長安へ強制遷都を行った際、曹操は盟主である袁紹に、今こそ董卓を追い詰めるべきだと進言するが袁紹は反対し、曹操は単独で董卓を追撃する。しかし、榮陽で徐栄の軍に破れ(演義では李儒)、馬を失うが、そのとき曹洪が駆けつけて、自分の乗馬を与えようとした。だが曹操はそれを拒んだ。すると曹洪は「天下に曹洪がいなくても問題はありませんが、あなたはいなければなりません」と言って曹操を馬に乗せ、自らは歩いて危機を脱した。
  徐州征圧戦や濮陽の戦いなどにおいて数々の功績を挙げ、特に呂布討伐の際には、飢餓に陥った曹操軍に先行して食料を確保し、曹操を勝利に導いた。
 その後も常に曹操麾下の武将として歴戦。また荊州征圧戦や、漢中戦などにも従軍した。 だが西涼征圧戦では、長安で徐晃とともに籠城している際、馬超軍による罵声を浴びせられ、それに耐え切れなくなった曹洪は諌言する徐晃を無視して長安から出兵するが、その後馬超に長安を征圧させられてしまい、その後曹操から死罪を言い渡されるが、曹仁の諫めで何とか助かり、その後馬超に追われる曹操を助け、罪を償った。
  曹操が死ぬと、驃騎大将軍に任命されるが、その後食客の罪を咎められ、官爵を剥奪され、領地を削減させられた。この原因は曹洪が金にうるさい性格であり、曹操がまだ健在のころ、曹丕に借財を頼まれ拒否されたことを根に持っていたからだといわれている。
 その後、曹叡の代に驃騎将軍に復帰し、後に死亡した。

 

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