三國志データベース

 

 
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龐悳 令明  <ホウトク レイメイ>
 
ピンイン:Páng Dé  Lìngmíng
所属:馬騰、馬超→張魯→曹操
出身:涼州南安郡狟道県
年:?〜219 (??歳死去)
諡号:壮侯


 龐悳は若くして郡吏、州の従事となり、その後初平年間(190〜196)に涼州の豪族であった馬騰に付き従って反乱を起こした、羌・氐の両部族を攻撃し、数多くの専行をあげ、昇進して校尉となった。
 官渡の戦いの後、曹操は袁譚・袁尚を黎陽において討伐したが、その際、袁譚は郭援・高幹に河東を攻略するよう命じた。そこで、曹操は鍾繇に関西の諸将を率いて彼らを討伐するよう命じ、龐悳は馬騰の息子馬超とともに平陽で郭援・高幹両軍と戦い、龐悳は両軍を散々に打ち破り、彼自身郭援の首を斬り大きな戦功をあげ、中郎将に任命され、都亭侯に任命された。
 その後、黄巾党の一派であった張白騎が弘農で反乱を起こしたが、龐悳はこれも馬騰に付き従って反乱を鎮圧させ、その武勇は馬騰軍の中で随一であった。
 馬騰が朝廷に召されて衛尉となると、龐悳は西涼にとどまって馬超の配下となった。
 赤壁の戦いの後、馬超が反乱を起こすと曹操自ら兵を率いて馬超討伐に乗り出し、龐悳は馬超の副官として数々の武興をあげるも、曹操軍によって打ち破られ、彼は馬超と戸ともに漢陽に逃げ延びて冀城に立てこもった。
 その後馬超が張魯のもとへ落ち延びるも、張魯と馬超とは仲違いし、馬超は劉備の傘下となるが、龐悳は漢中にとどまり、曹操が漢中を平定すると、龐悳は軍勢を率いて降伏した。
 侯音・衛開らが宛で反乱を起こすと、龐悳は配下の兵を率いて曹仁とともに宛を攻撃して陥落させ、侯音・衛開を斬り、そのまま樊城に駐屯し、関羽を討伐した。
 だが、樊城の諸将は、彼の従兄である龐柔は蜀におり、また、彼の元主君である馬超も蜀にいると事から、蜀に寝返るのではないのかと不審がった。
 そこで、龐悳は自分の大きさに合う棺桶を作らせ、それを諸将の前に見せつけ「自分はこの棺に入る覚悟だ」と言い放ち、その彼の行いに諸将は疑いをなくした。
 関羽と戦を交えると、龐悳はいつも白馬に乗り勇猛であったことから、関羽陣営では白馬将軍と恐れられ、また、龐悳は関羽の額に矢を命中させた。
 それから、十数日にわたって長雨が降り続き漢水は氾濫した。樊城のあちらこちらが水没し、龐悳は高台に逃れたが、関羽軍は船を用いて龐悳軍を攻撃したので、龐悳の配下であった、董衡や董超らは関羽に降伏しようとしたが、龐悳は彼らを切り捨て、必死に関羽の攻撃を防いだ。
 翌朝になり、龐悳はわずかな手勢を率いて小船を以って曹仁のところへ戻ろうしたが、水の勢いが盛んであったため小船が転覆し、龐悳らは武器を失い、ただ彼のみ船底を抱いて難を逃れようとしていたが、そこを関羽に捉えられた。
 関羽は、主君であった馬超や従兄の龐柔が蜀にいるので降伏してはどうか、と諭したが、「どうして賊の将になろうか?」と降伏を拒否し、関羽に殺された。

 

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郭淮 伯済  <カクワイ ハクセイ>
 
ピンイン:Guō Huái  Bójì
所属:曹操、魏
出身:并州太原郡陽曲県
年:?〜255 (??歳死去)
諡号:亭侯


 郭淮は、祖父は大司農、父は雁門の太守という裕福な家庭の間に生まれ、建安年間に孝廉に推挙され、平原の丞に任命された。
 曹丕が五官中郎将になると、郭淮を召しだし、その後は曹操の漢中遠征に従軍し、漢中平定後は、征西将軍であった夏侯淵を太守に任命し、劉備と対抗させたが、そのとき司馬として郭淮を夏侯淵のもとにおかせた。
 夏侯淵が劉備と戦って戦死すると陣中は大混乱した。そこで郭淮は散卒を集め、盪寇将軍であった張郃を夏侯淵に代わる軍団長に決めたのでようやく陣営は落ち着いた。
 その翌日、劉備軍は先日の勝ちに乗じて漢中を落とさんと攻め込んだ。郭淮は諸将を落ち着かせ、劉備軍と対峙し、劉備軍を撤退させ、その功績を曹操に報告すると、曹操は大いに喜び、張郃に節(軍権)を与えて、再び郭淮を司馬に任命した。
 曹丕が王位につくと、関内侯の爵位を賜り、鎮西長史、また、征羌護軍を兼任し、張郃や楊秋を監督し、山賊や蛮族の反乱を平らげ、これで関西は統一した。
 黄初元年(220)、曹丕が帝位につくと、雍州刺史を代行させ、射陽亭侯に取り立てて、五年後、まことの刺史となった。
 安定に勢力を築いていた羌族の元帥辟蹏(ヘキテイ)が反乱を起こしたので、郭淮はこれを討伐し降伏させ、降伏した諸将がやってくると、行き届いた質問を行い、諸将はその神のごとき明察ぶりを賞賛した。
 太和二年(228)、蜀の丞相諸葛亮が岐山に出陣し、彼の配下であった馬謖を派遣し、高詳を列柳城へ駐屯させた。張郃は馬謖を攻撃し、郭淮は高詳を攻撃し、いずれも打ち破り、諸葛亮の岐山進出を防ぎ、さらに隴西にいた羌族の名家唐蹏(トウテイ)を打ち破り、建威将軍に任命された。
 その後は、司馬懿の部下として彼に的確な意見を申し入れ、蜀軍の進攻を防ぎ、果たして諸葛亮は遠征を成功させることなく、五丈原で病没する。
 その後は、諸葛亮の後を継いだ姜維が正始元年(240)に隴西に出陣すると、郭淮は軍を率いて姜維の軍を打ち破り、そのままの勢いで蜀に味方した羌族の迷当大王を降伏させ、従順な氐族を関中へ強制移住させ充実させ、それらの功績で左将軍に任命される。
 同五年(244)、夏侯玄が蜀討伐に乗り出すと、郭淮は先鋒を命じられるが、形勢不利と判断し、すぐさま兵をまとめて撤退させたので、大敗せずにすみ、その後、節(軍権)を与えられた。
 同八年(247)、俄何(ガカ)、焼戈(ショウカ)〔演義では二人を合わせて俄何焼戈という一人の人物としている〕、伐同、我遮塞(ガシャサイ)らが結託して魏に反乱を起こし、蜀軍を招き入れ、また、それにあわせて涼州の治無戴(チブタイ)も反乱を起こした。
 将軍夏侯覇は諸軍を率いて為翅(イシ)に駐屯し、郭淮は諸将の意見を聞き入れず夏侯覇の軍と合流した。案の定、姜維は夏侯覇の軍を攻撃したが、郭淮の軍が合流したことを知ると退却し、進言して反乱を起こした羌族を討伐し、俄何、焼戈を斬り、降伏するものは一万余りの部落に上った。その翌年になると、郭淮の策により、我遮塞、治無戴の両軍を打ち破った。
 姜維が石営に出陣し、敗れた治無戴を向え、陰平の廖化に城を築かせ、敗れた羌族たちを収容した。郭淮はこれを奪還しようと、周りの反対を押し切り、夏侯覇を姜維に当たらせ、郭淮は廖化を攻撃し、姜維は慌てて廖化と合流した。
 さらにその翌年、征西将軍ほ位に就き、雍州刺史の陳泰とともに策略を練って、蜀の牙門将軍句安を降伏させた。
 帝もこれを大いに喜び、郭淮は車騎将軍に任じられるも、それから数年して逝去した。

 

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孫礼 徳達  <ソンレイ トクタツ>
 
ピンイン:Sūn Lĭ  Dédá
所属:曹操、魏
出身:幽州涿郡容城県
年:?〜250 (??歳死去)
諡号:景侯


 孫礼は、曹操が幽州を平定すると、取り立てられ、その後、河間郡の丞(郡の副長官)、さらに昇進して滎陽の都尉となった。
 その頃、魯山の山中に数百人の盗賊がいて、険しい難所に立てこもって、付近の住民に強奪を働いていた。そこで、帝(誰かは不明)は孫礼を魯へ移し、彼は官民を動員して賊の首に賞金をかけ、降伏するものを大いに招きいれたため、賊は壊滅し、魯には平安が戻った。
 その後は各地の太守を歴任し、大司馬であった曹休に付き従って呉征伐に赴くも、曹休は孫礼の諌めを無視して呉軍を深追いし、大敗し、その後は中央に戻って、尚書となった。
 曹叡は、その頃多くの宮などを建立していたが、一方で気候が不順で、作物が実らなかった。そこで、孫礼は労役を止めるよう奏上し、人民を解放し、曹叡から大いに信用を得る。
 その曹叡の臨終の際、曹爽を大将軍に任命したが、その補佐役が必要であると感じ、孫礼を大将軍長史に任命し、散騎常侍となった。
 孫礼は、誠実でかつ正直に政を行っていたため、曹爽はこれを不愉快に思い、左遷して揚州刺史に任命し、伏波将軍の号を与え、関内侯につけた。
 それからしばらくして、呉の将軍全jが数万の軍勢を率いて魏揚州領内に進攻した。この時、州兵たちは休暇を取っていたため、戦えるものはほとんどいなかった。なので、孫礼は自ら守衛の兵士たちを率いて防御にあたり呉軍と戦い、一日がかりで将兵の半数以上が死傷する有様であった。その後孫礼は剣を携え敵と戦を交え、馬が傷つきながらも、陣太鼓を鳴らして奮戦し、ようやく呉軍は撤退した。
 帝は大いにこれを喜び、孫礼に絹七百匹を送ったが、孫礼はそれを全てその戦で戦死した遺族の家に送った。
 その後、中央に戻り高官を歴任するも、曹爽体制の魏帝国に対し不満を抱き、自ら逮捕される覚悟で上奏文を奉った。
 曹爽はその上奏文を見て大いに怒り、孫礼が朝廷に対して恨みを持っているのだと告発し、孫礼を五年間の禁錮刑(軟禁)に処した。それから一年ほどして、大勢の人が彼の禁錮を嘆き、彼のためにとりなしたので釈放される。
 そして、匈奴王劉靖の率いる軍勢が強大となる中、鮮卑族がたびたび国境地帯に進出した。そこで、帝は孫礼を并州刺史として、振威将軍の官位を加えられるも、司馬懿には、国家が曹爽によって掌握されることを嘆き、司馬懿は今はしのぶべきだと彼を諭した。
 司馬懿がクーデターを起こし曹爽が失脚すると、中央に入って司隷校尉となり、七郡五州を管轄するようになった。
 その後は、司空へと昇進し、百戸の領有を与えられた。

 

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華歆 子魚  <カキン シギョ>
 
ピンイン:Huá Xīn  Zĭyú
所属:孫策、孫権→曹操、魏
出身:幽州平原郡高唐県
年:157〜231 (75歳死去)
諡号:敬侯


 華歆は、はじめ役人となり、彼の議論は公平であり、絶対に人を傷つけることはなかった。
 同郡の陶丘洪は大変名を知られた人物であり、彼は華歆よりも自分のほうが見識があると思っていた。そんなとき、王芬が周りの豪族とともに霊帝廃位を計画し、王芬はひそかに平原郡で有名であった、華歆と陶丘洪も、この計画に参加させようとした。
 陶丘洪がこれに同意し、王芬に従おうとすると、華歆は彼を引きとめ、必ず企ては失敗すると説明し、それに陶丘洪も応じた。かくして、王芬はやはり計画を失敗し、陶丘洪は華歆のほうが見識に優れると感じた。
 その後、華歆は仲の良い北海の邴原、管寧ととも遊学し、当時華歆を龍の頭、邴原を龍の腹、管寧を龍の尾として、三人を一匹の龍と考えた。
 霊帝崩御の後、何進は荀攸らとともに華歆を召しだし、華歆は尚書郎に任命されるが、董卓が政権を掌握すると、華歆は都を離れ南陽へと赴くが、その途上で袁術に引き止められ、華歆は袁術にいまこそ董卓を討伐すべきだと進言するも、袁術はそれを聞き入れず、華歆は袁術に見切りを付けようとした。
 その頃、帝は関東の情勢を安定させるため、太傅馬日[石單]を派遣し、彼は華歆を召しだして掾とし、彼らが徐州まで来ると、詔勅を受けて、華歆を豫章の太守に任命した。
 華歆の行政は落ち着いており、官民ともに彼を崇拝し、後に揚州刺史の劉繇が死亡すると、民衆は華歆に劉繇の世継ぎをしてもらうよう、数ヶ月にわたって華歆に懇願したが、華歆はこの乱世に乗じて任命を引き受けることは、人の義理に反することだといって、了承しなかった。
 孫策が江東の地を攻略したとき、華歆は孫策の用兵のうまさを知っていたので、孫策を歓迎した。孫策は彼が徳のある人物であるので、上客に対する礼を以って接した。
 孫策が死去すると、曹操は華歆を召し出すように天子に上奏した。孫権は彼が曹操の元へ行くことを止めたが、華歆は「ご主君と曹操殿との間柄はまだ確固としたものではございませぬ。私一人のために、その関係を悪化させるわけには行きませぬ」と言い、孫権はやっとのことで、了承した。彼を見送る者は千人以上にも上った。
 華歆が都へつくと議郎に任命され、司空の軍事に参与し、その後朝廷に入って尚書に任命され、荀ケ没後は尚書令に任命される。また、一方で曹操が孫権を攻撃した際には、軍師としても活躍している。
 それ以後も高官を歴任し、御士大夫、相国などに任命される。
 曹丕が帝位に就くことに尽力し、帝から禅譲を行うよう進言し、かくして曹丕は帝位についた。その功により司徒に任命される。
 あるとき、孝廉を以って推挙する場合、徳行を見て行うのが本来であるから、試験をしないようにとの発議があった。だが、華歆はこれに反対し、もし今試験を課さなければ、学問は廃れていくと曹丕に進言し、曹丕は華歆のいう通りにした。
 曹叡の代には太尉に転任し、曹真が蜀討伐に出陣すると、華歆は今は政を重視すべきであると帝に上奏した。

 

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