三國志データベース


黄巾党の乱


DATA
年代:184年(中平元年)
対戦相手:漢正規軍+義勇軍 V.S 黄巾党
代表武将:朱儁、皇甫嵩、曹操、孫堅、劉備 張角、張宝、張梁など
結果:黄巾党が壊滅。

 これは確かな記録ではないが、黄巾党首領、太平道師君である張角は、官吏登用試験に落ちて、落ち込んでいるときに、南華老仙という仙人が現れた。南華老仙は張角に、太平要術と呼ばれる三巻の書物を渡した。この書物には、風や雨を起こす術がかかれており、張角はその書物をもらうと、すぐに家へ帰りそれを読んで必死に勉強をした。
 そしてそれからしばらくたち、張角の住んでいる村付近で、大規模な疫病が流行した。張角は、そのとき門を開けて、病人に対し、お札を燃やして出た灰を水に入れた、符水を弟たちに命じて、病人に飲ました。すると病人の容態は見る見る回復して行き、病気が治ったものは、張角の弟子として、張角の身の回りの世話をするようになり、いつしかその数は、一万を越えるに至った。
 そこで張角は、自らを師君として太平道という宗教組織を作り、張角に仕えていたものはみな、太平道に入った。そして、張角は勉強する際に黄色い鉢巻を巻いていたので、同胞はみなそれを真似した。これが黄巾党といわれた理由である。
 そして張角は、神のお告げが在ったと称して、「蒼天已死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉」という言葉を、部下らに言い放った。意味は、漢王朝はもう既に死に、今こそ黄巾党がたつべきである 立ち上がる年は甲子 そうすれば天下は大吉になるだろうという意味である。

 打倒漢王朝の風潮が流れる中、張角はついに事を起こす。自分の腹心である馬元義を、洛陽にいる中常侍、封諝(正史に登場する十常侍は張譲・趙忠・段珪・夏ツ・郭勝・孫璋・畢嵐・栗嵩・高望・張恭・韓小里・宗典の十二人で、封諝は史実には登場しない)のもとへ派遣させ、都でも内乱を起こそうと画策した。
 しかし事は露見し、馬元義は市斬、そして封諝は投獄される羽目になってしまう。張角は馬元義が殺されたことを怒り、中平元年、西暦184年、漢王朝に対して宣戦布告を行い、各地の部下たちに挙兵するよう伝えた。
 このとき黄巾党の勢力は、徐州や豫州を始めとして、果ては益州まで広がる大勢力であった。帝(というよりむしろ宦官)はすぐさま自分の妻であり皇后の兄、何進を召しだし、すぐさま黄巾党を討伐するよう勅令を下した。
 何進は袁紹を副官とし、朱儁、皇甫嵩、廬植、曹操らを戦地に派遣した。始めは圧倒的に黄巾党の方が有利であった。しかし、訓練の差と策を駆使したことにより徐々に官軍が優勢になり始めた。とくにこのときの曹操の活躍は目覚しかった。
 曹操は黄巾党と戦った際、大規模な火計を行い、敵・味方ともども焼き払ってしまい、また皇甫嵩軍は、張角の弟、張宝を捕らえることに成功した。
 またそのころ、各地を治める太守は、自分たちが持っている兵でしか戦うことができずにいたので、義勇兵をそれぞれが募集した。この募集の際に、漢王朝の血を引き継ぐ劉備と、関羽、張飛が兵を立ち上げ、幽州太守劉焉の助太刀をした。
 劉備軍は、猛将、関羽・張飛の活躍により次々と戦果を収めて行き、そしてついには張角の弟、張梁の軍を壊滅させるまでに至る。
 黄巾党圧倒的不利の中、ついに太平道教祖である、張角も失意のうちに死亡する。そしてその後急速に乱は終結を見せ始め、その翌年、一年足らずで乱は鎮圧された。


水関の戦い

DATA
年代:191年(初平二年)
対戦相手:反董卓連合(孫堅軍) V.S 董卓軍
代表武将:孫堅、袁術、袁紹、関羽、祖茂、華雄
結果:孫堅軍が壊滅状態になる。

 反董卓連合が結成され、諸侯が集まる中、まず誰が先陣を切るかが決められた。誰もがみな戦う意志があるというわけではなく、名前だけという諸侯もいる中で、先陣はかなりの重要性がある。何せこの先陣での勝敗で、連合の士気も変動してしまうのだから。
 そして一人の者が志願した。江東の孫堅である。孫堅は黄巾党の乱の際にも活躍し、周りの諸侯からも、強いとして評判である。連合の長である袁紹も、孫堅ならば任せられるだろうと、孫堅を任命した。
 孫堅は手勢を率いて、水関へとやってきた。水関は、洛陽を守る要所の一つであり守りは厳しい。さらに水関を守るのは、董卓軍No.2の華雄である。華雄は呂布が董卓の部下になるまでは、董卓軍最強の武将であった。
 だが孫堅軍が水関へ到着すると、すでに無数の死体が散乱していた。この死体は、功を焦った連合軍参加諸侯の一人、鮑信軍の兵士であった。鮑信軍は華雄軍に滅多打ちにされていた。
 孫堅軍はすぐさま総攻撃を命じた。このとき華雄軍も打って出たが、孫堅は華雄の副将である胡軫を討ち取ると、余裕で勝利した。
 この後の華雄軍は討って出ようとはせずただ待機のみをするばかりであった。
 その間に、連合軍本部では、袁紹と袁術との間で、孫堅に戦功を取られるのは嫌だと、孫堅軍に対して食料を送らないように画策した。おかげで、孫堅軍は、水関を落とすこともできずに、徐々に食料が減っていき、ついには食料が尽き、孫堅軍の士気は低下した。 
 それを見て、華雄は夜襲をかけた。この夜襲により、孫堅軍は不意をつかれ、孫堅は逃亡した。この際、孫堅の腹心である祖茂は、孫堅の格好の真似をして華雄を誘き寄せ、何とか孫堅を逃がすことができた。
 
 そして勢いづいた華雄軍は、そのまま連合軍本部が置かれている場所へ向かった。
 連合軍は、孫堅軍敗北と、華雄軍の到来に恐れをなしていた。だがすぐ目の前に華雄軍が近づいている。見かねた袁術の武将、兪渉が突撃したが、華雄にあっという間に討ち取られた。
 それを見て、公孫瓚の客将劉備の義弟、関羽が名乗り出た。袁紹は、そのような身分の低いものが首を出すなと怒鳴ったが、連合軍の参謀である曹操は宥めて、関羽に許可を出した。曹操は酒を差し出したが、関羽は酒が冷えぬうちに戻ってくると行って、出発した。
 関羽は華雄を見つけると一騎打ちを申し出た。華雄はなめてかかって関羽に突撃したが、関羽は軽くかわすと、青龍偃月刀で華雄の首を打ち落とした。これを見て、華雄軍は恐れをなして撤退した。
 関羽が華雄の首を戻ってくると、諸侯はみな驚いた。関羽はその首を袁紹に渡すと、まだ温かい酒を飲み干した。


虎牢関の戦い

DATA
年代:191年(初平二年)
対戦相手:反董卓連合(孫堅軍) V.S 董卓軍
代表武将:袁紹、公孫瓚、曹操、劉備、関羽、張飛、董卓、呂布
結果:董卓軍が敗退し、都を焼き払う

 水関の戦いにおいて華雄軍を破った連合軍は、勢いづき、また敗れた董卓軍は、兵士十数万を率いて虎牢関へと向かった。虎牢関は都洛陽を守る最大の砦であり、鉄壁の防御力である。
 袁紹は諸侯と相談して、連合軍を二分割し、主力を虎牢関へ移しながらも、水関へも兵を残し、攻める機会を窺うことになった。
 連合軍は虎牢関の手前に陣を張り、様子を窺おうとした。しかし敵は突如として虎牢関から出てきて、まだ作業中の連合軍の陣目掛けて突撃してきた。大将は、董卓軍最強の武将、呂布である。

 呂布は得物方天画戟を自在に振り回し、張楊の部下である穆順と、王匡の部下の方悦を殺し、孔融の部下の武安国に傷を負わせると、白馬に跨り、一際目立つ、公孫瓚を目標として、獣が得物を取ろうとするが如く、もうスピードでおいかけてきた。
 公孫瓚は慌てて逃げ始め、無我夢中である。味方であろうが、敵であろうが自分の前にいる兵士らを倒して行き、必死に逃げたが、呂布の愛馬は、あの一日に千里走るといわれる赤兎馬である。公孫瓚は今にも追いつかれそうになった。
 すると、前に食客の劉備の義弟である張飛が馬に乗って現れた。張飛は公孫瓚を安全な方へ逃がすと、愛武器、蛇矛を引っさげ、呂布と一戦を交えた。始めは手加減していた呂布であるが、張飛のその強さに驚き、二人は本気で戦った。
 しばらくすると、両者ともに焦りが出始め、疲労が溜まってきた。そのとき、張飛に応援がきた。劉備と関羽である。劉備は雌雄二対の剣を、関羽は青龍偃月刀を携え、呂布に突撃した。一対三ではさすがに呂布も力には劣り、三人の隙を見つけて、撤退した。
 大将である呂布が撤退するのを見て、呂布軍の兵士は、驚き呂布に従い逃走し、虎牢関へと引き返した。そして、劉備、関羽、張飛の三人の活躍により、見事呂布を打ち破ることができた。
 しかしその後、呂布は籠城戦を続け、敵の不意を突いて、長安へと逃げ延び、連合軍は、董卓の洛陽焼き討ちを止めることができなかったのである。


盤河・界橋の戦い

DATA
年代:192年(初平三年)
対戦相手:袁紹軍 V.S 公孫瓚軍
代表武将:袁紹、麹義、顔良、文醜、公孫瓚、趙雲、劉備
結果:董卓が停戦を命じ、停戦する

 董卓が洛陽を焼き払い、その後その焦土した洛陽に入った連合軍は、もう全く意欲がなかった。しかも、孫堅が古井戸から玉璽を見つけ、その所有権を巡って袁紹と仲違いし、孫堅は連合から脱退。さらに立て続けに群雄が、連合から脱退していってしまう。
 残された袁紹軍には、食料も全くなく、どうすることもできずにいた。そのとき参謀の逢紀が、公孫瓚に冀州牧である韓馥を騙すために、兵を冀州へ派遣し、冀州を得た後は、領土を二分しようと手紙を送り、韓馥には、公孫瓚軍が攻めてくるから、自分の軍が手助けしに行くという二通の手紙を送ることを進言した。
 唯一の策に袁紹は同意し、また手紙を送った公孫瓚も同意した。果たして、公孫瓚軍は冀州に向けて兵を派遣し、手紙を読んだ韓馥は、すぐさま袁紹を援軍に呼んだ。
 その際に、数人の参謀がそれを反対したが、韓馥は反対を押し切り袁紹を出迎え、その結果、韓馥は追い出され、袁紹が冀州の牧へとなった。
 しかし公孫瓚には何の音沙汰もなく、不審がった公孫瓚は、弟の公孫続を袁紹のもとに派遣した。袁紹は公孫続に会うと、こういうことは間接的に話し合っても、後に互いの意見に相違が出るといって公孫続を公孫瓚の元へと引きかえらせた。
 しかしその帰り、袁紹の暗殺部隊が公孫続を暗殺、さらにその知らせが公孫瓚のもとへ流れ、公孫瓚は怒り狂い、自ら白馬義従(公孫瓚の部隊の異名)を率いて、盤河・界橋へと出兵した。
 これに対して袁紹もまた同じく盤河・界橋に兵を置き、両者は川を挟んで対峙した。

 そして公孫瓚は自ら白馬義従を率いて袁紹軍に突撃した。これに対するは、白馬義従との戦いに慣れている武将、麹義。麹義は弩弓兵に、一斉に白馬義従目掛けて矢を放つよう命じた。
 公孫瓚軍はそれにほぼ壊滅的な打撃を受け、しかも勢いづいた袁紹軍は、袁紹軍の猛将、文醜に兵を率いさせ、公孫瓚を追撃した。公孫瓚が必死に逃げ惑い、その後ろを文醜が単騎で、公孫瓚の首を狙った。
 そして徐々に距離の差は縮まり、公孫瓚は絶対絶命かと思われた。しかしそのとき一人の青年が、その二人の間に割って入ってきた。趙雲子龍である、趙雲はまだは太刀を満たない青年で、文醜に一騎打ちを挑んだ。
 文醜ははじめなめて掛かったが、しばらく打ち合っている間に、趙雲の強さに圧倒され、仕方なく撤退した。公孫瓚は趙雲に感謝の意を述べ、趙雲を食客とした。
 そして翌日。趙雲の策により、あえて袁紹軍を誘き寄せ、橋を渡らせたところで、弩弓兵に一斉に攻撃させるため、公孫瓚はまたも自ら兵を率いて袁紹軍に突撃した。
 袁紹はまた麹義に当たらせ、白馬義従はまた苦戦を強いられた。公孫瓚は頃合を見計らって撤退命令を下した。袁紹は今日で決着をつけるため、麹義を先頭に、文醜、顔良に追撃させた。
 公孫瓚軍が界橋を渡り、袁紹軍も渡り終えたとき、一斉に茂みから弩弓兵が現れた。そして袁紹軍目掛けて、大量の矢を射掛けた。
 さらに救援に、劉備軍が現れ、袁紹軍は壊滅状態に追いやられ、麹義は趙雲によって討たれた。
 結局両者ともに一勝一敗で、ともに疲弊しきっていた。今度の戦で全ての決着がつけられようとしていた。
 その頃、洛陽では、董卓が、両者が戦い、どちらかが勝てば、強大な力を手に入れることになり、今後の天下統一には不便であると、馬日[石單]と趙岐を二人のもとへ派遣し、停戦するよう勅令を降し、果たして盤河の戦いは終結したのである。

 

 

徐州掃討戦

DATA
年代:193年(初平四年)
対戦相手:曹操軍 V.S 陶謙、劉備連合軍
代表武将:曹操、曹嵩、陶謙、張闓、劉備
結果:曹操軍の撤退。

 董卓の影響力は諸侯だけではなく、近隣の賊をも震え上がらせていた。
 董卓死後、あちらこちらで賊が蜂起し、曹操は勅命を受け、青州黄巾賊討伐に乗り出し、見事に平定させ、青州黄巾賊を配下に加えた。
 朝廷はその功績を讃え、曹操を兗州の牧へと任命した。今まで、一つの城を、謂わば借りている身であった曹操にとって、それは破格の大出世であった。
 曹操はようやく自分の身の置き所を見出し、曹操はここで親孝行をすべきだと、譙にいる自分の父親、曹騰を兗州に招きいれようとした。
 曹嵩は大喜びし、家財道具をまとめ、配下を引き連れ、兗州へと向かった。その烈はかなり豪勢なものであった。そしてそのことを知った徐州牧、陶謙は、少しでも曹操とのよしみを持とうと画策し、曹嵩を自分の城へと誘った。
 曹嵩は喜んで、陶謙のいる下邳城へ向かい、陶謙のもてなしを受け、さらに陶謙は曹嵩に護衛の兵士をつけ、曹操へのみやげ物を渡した。
 その列は、まるで皇族の列のようであった。しかし、陶謙が配置させた護衛兵の中に、張闓というものがいた。彼はもと黄巾賊で、仕方なく陶謙配下の将として曹嵩を護衛していたが、そのあまりの財貨に目がくらんで、仲間と共同で、曹嵩を刺殺し、金品を奪って逃げ去った。
 そして陳留に、その悲報が知らされると、曹操はただ頷き「報讐雪恨(讐を報いて、恨みを雪ぐ)」という言葉を発した。さらに青州黄巾賊を連れて行くと言った。すると陳宮がそれは絶対にいけない」と忠告したが、曹操は彼の意見を無視し、徐州へと攻め入った。
 曹操は青州黄巾賊を先鋒として出発させ、徐州兵はもちろんのこと、一般民衆まで、悉く殺戮した。その死体により、川の水がせき止められるほどである。
 これに恐れをなした陶謙は、公孫瓚と孔融に援軍を頼んだ。孔融は猛将太史慈を、公孫瓚は、劉備、関羽、張飛を派遣した。しかし、その間に、孔融のいる北海が、旧黄巾賊に囲まれ、太史慈がそれを撃退するために、援軍から離れた。
 陶謙は、劉備らを温かく迎え、早速陶謙の幕臣である、糜竺が劉備らに策を示した。しかしそのことは曹操に見破られ、劉備は最終の手として、曹操に和睦を申し込んだ。
 始め、曹操は和睦など全く受ける気ではなかったが、軍師の陳宮が、張邈を扇動し、呂布を陳留に向かい入れ、兗州を次々と攻撃していったという、報告が入ったので、曹操は劉備の和睦に応じ、すぐさま陳留へと引き返していった。

 


宛城の戦い

DATA
年代:197年(建安二年)
対戦相手:曹操軍 V.S 張繍軍
代表武将:曹操、典韋、曹昂、曹安民、張繍、賈詡、胡車児
結果:曹操軍の撤退。

 呂布の裏切りに遭った劉備が、曹操のいる許都へと向かい、曹操は劉備を豫州の牧に任命した。これによりさらに勢力を伸ばした曹操に一報が入る。
 かつての李[イ寉]・郭の配下である、張済の一族に当たる張繍が、残党を集めて、南陽は宛城で、許都攻撃の好機を狙っているというのだ。
 曹操は張繍を討伐するため、敵である呂布を平東将軍に任じ、曹操に恩を着させ、攻撃しないように差し向け、曹操自ら南陽討伐に向かった。
 この曹操軍進撃の知らせが入ると、張繍の参謀である賈詡は、今後のために力を温存し、ここは曹操に降伏するのが最良の手段だと張繍に言い聞かせ、賈詡自ら降伏の使者として、曹操の元へと向かった。
 曹操は気を良くして宛城に入った。宛城でまず曹操の目に飛び込んだのは、絶世の美女であった。曹操が誰かと尋ねると、張済の未亡人である鄒氏だという。曹操は鄒氏に惚れて、宛城に入城してからずっと鄒氏のもとにいた。
 張繍は、一族の未亡人である鄒氏を、曹操に取られるのに憤りを感じたが、賈詡はそれを絶好の機会だと察知し、曹操暗殺の計画を立てた。
 張繍はまず、曹操に理由をつけて自分の兵を動かす許可を得て、曹操と鄒氏のいる屋敷の周りを兵士で取り囲んだ。
 さらに曹操の護衛である典韋をどうにかするため、張繍部下の胡車児に、典韋を酔っ払わせ、さらに武器を奪った。そしていつものように、曹操が鄒氏の館にいるとき、兵で館を囲って、館に火をつけた。
 曹操は慌てて逃げる準備をはじめ、また典韋は武器も持たず、館を囲っていた兵士を次々となぎ倒していった。しかし敵の攻撃を浴び、遭えなく絶命。さらに曹操の甥の、曹安民もまた兵士に殺害された。
 しかし曹操は何とか息子である曹昂のおかげで何とか館を脱出したが、追撃してきた胡車児軍の矢により、曹操の愛馬が絶命、隣にいた曹昂は自分の命を捨て、馬を曹操に譲り絶命した。何とか宛城から脱出することができた曹操であるが、その後曹昂を生んだ丁夫人とは離別。卞夫人が正妻となった。
 後に曹操が宛城を訪れた際、被害にあったものたちを供養したが、曹操は息子を失ったことより、典韋を失ったことの方が、痛手だったという。


白門楼の戦い

DATA
年代:198年(建安三年)
対戦相手:曹操・劉備連合軍 V.S 呂布軍
代表武将:曹操、劉備、呂布、陳宮
結果:呂布の死亡。

 立て続けに呂布軍と戦う曹操軍は、夏侯惇が左目を負傷し、小沛を呂布軍に取られてしまう事態になってしまっていたが、陳珪、陳登親子の活躍により、まんまと呂布を出し抜くことに成功し、小沛を奪い返し、呂布軍は下邳城へ落ち延びた。
 下邳城の周りには、曹操軍が何重にも囲い、呂布軍は籠城せざるを得なかった。その間に、参謀である陳宮との一時の仲違いも生じたが、何とか形勢を建て直し、曹操軍の日々の攻撃に必死に耐えた。
 そして陳宮はこの危機を脱出すべく、ひとつの計略を編み出した。呂布が兵を率いて城外に出れば、曹操軍は呂布を捕らえようと、総出で呂布軍を攻撃する。その間に、城から曹操軍の背後を突こうと、陳宮は考えたのだ。
 はじめ呂布はその計に乗り気であったが、妻が、呂布を犠牲にするのは危険であるし、以前の陳珪、陳登親子のように裏切り者がでるかもしれないと、呂布を止め、結局陳宮の挽回の計略は水泡と化した。
 そして冬が訪れ、曹操軍は着々と冬に備え陣作りを始めた。もう、呂布軍に打って出る隙もなかった。すると部下の一人が、かつて滞りになっていた、呂布の娘と、袁術の息子の縁談を成功させ、袁術に助けを求めることを進言した。
 呂布はしぶしぶその策に応じ、夜、使者を派遣した。袁術は、娘を連れてこなければ、援軍はよこさないと答え、呂布は、愛馬赤兎馬に娘を乗せた。
 しかし、その情報を知っていた曹操軍は、呂布軍に一斉に攻撃を仕掛けた。娘を守るため、呂布はこの分厚い包囲網を突破することができず、下邳に引き返した。
 冬はますます厳しさを増し、曹操軍は早く呂布を捕らえる必要があった。そこで、参謀の、郭嘉、荀ケ、荀攸は下邳城を流れる川を堰きとめ、下邳城を水浸しにする作戦を考え、曹操はそれを決行した。
 城内は水で溢れかえり、呂布軍の士気は恐ろしく低下した。そんなとき、呂布の武将である侯成が、景気づけに宴会を催した。しかし呂布は、それを謀反の企てだと決め付け、侯成を鞭打ちの刑に処した。その呂布の行動にあきれ果てた、侯成と、魏続、そして宋憲は呂布を捕らえ、曹操軍に降伏することを画策する。
 そこで侯成はひそかに呂布の足ともいえる赤兎馬を盗み出し、曹操に降伏。自分たちの計画を曹操に話した。
 さらにその後、酒を煽り、その後椅子で高いびきを掻いて寝ていた呂布を、侯成と魏続が、二人して椅子ごと縄で縛った。呂布はとっさのことで驚いたが、もう後の祭りであった。呂布はまったく身動きが取れない状態であった。
 侯成と魏続は将兵に、呂布を捕らえ、今から曹操に降伏すると伝え、呂布の腹心である陳宮、張遼、高順、さらに呂布の家族などを捕らえ、城を開門した。
 初め怪しがって中々城に入場しないため、宋憲が城から呂布の愛武器、方天画戟を投げた。それを確認した曹操軍は城に入り、呂布をついに捕らえた。
 呂布、陳宮、張遼、高順の四名は曹操や劉備の前に引き摺り出された。呂布が、必死に抵抗する中、まず陳宮が呼ばれた。
 かつて陳宮に助けられたこともある曹操は何とか陳宮を部下にしたかった。しかし陳宮は死ぬことを望んだ。惜しまれながらも、曹操は一族の面倒は見ると、そういい、陳宮は処刑された。
 呂布は、曹操の前に来ると、急に恭しい態度になって
「曹操殿、どうだ。あんたが大将で、俺が副将をすれば、まさに最強。どうだ、俺をあんたの部下にしないか」
 と言ってきた。曹操がどうすべきか劉備に聞いた。すると劉備は冷たい目で呂布を見て
「丁原殿と、董卓のことを忘れてはいけませぬ」
 とだけ言った。二人とも、呂布が裏切って殺した人物である。曹操は頷き、呂布を死刑に命じた。必死に抵抗する呂布に、部下の張遼が一喝
「見苦しいぞ、奉先!最後ぐらい潔く死ぬものだ!」
 といい、呂布は素直に従い、縛り首に処された。張遼は、曹操の部下となり、高順は呂布とともに死ぬことを望み、殺されたのだった。


白馬の戦い

DATA
年代:200年(建安五年)
対戦相手:曹操軍 V.S 袁紹軍
代表武将:曹操、関羽、張遼、袁紹、顔良、文醜、劉備
結果:袁紹軍の敗走。

 豫州において、まさに最強といわれた呂布を倒し、中原に大勢力を築いた曹操。そして、幽州の豪族である、公孫瓚を倒し、河北に勢力を築いた袁紹。建安五年現在、この二つの勢力が、最強の勢力であった。
 曹操は呂布討伐後、劉備を時の帝である劉協に合わせた。劉備はこのとき劉協に対し、自分は漢王朝の皇帝の血を引くものであるといい、実際にそれが証明され、劉協は劉備のことを、劉公叔と呼び、心を寄せた。
 その後、帝やその国舅である董承らの曹操暗殺計画に名を載せた劉備は、袁術討伐の名目で都を離れ、そして袁術軍を壊滅させ、劉備がもともと支配下に治めていた、徐州へと入った。
 すると、関羽と張飛が、徐州牧で車騎将軍の車胄を殺し、曹操に対して謀反。劉備はそれに対し仕方なく徐州の太守を名乗った。これに対して曹操は劉備討伐の兵を挙げ、劉備は袁紹を頼って河北へ、関羽は曹操の部下に、張飛は彷徨い汝南へと向かった。
 曹操は関羽を礼遇し、酒を酌み交わし、関羽と交わった。その一方で関羽は劉備に逢いたいという一心であった。
 そして袁紹がついに曹操軍と戦うことを決意した。軍師である田豊の諫めを無視し、袁紹軍の猛将である、顔良、文醜にまず兵を率いさせ、その後袁紹自らが兵を率いた。
 それに対して曹操も臨戦態勢で臨んだ。関羽も参戦すると主張したが、曹操は関羽に今まで恩を売ってきたので、その恩を返してしまい、自分のもとを去るのを恐れ、拒否した。そうして、両軍は白馬で激突した。
 猛将顔良は次々と曹操兵をなぎ倒し、呂布から曹操に降伏した武将、魏続と宋憲を瞬殺し、さらに曹操軍の名将、徐晃を落馬させた。曹操軍の劣勢であった。
 すると張遼が、これでは軍が総崩れになると、関羽を呼び出すことを曹操に提案。曹操はそれに仕方なく同意し、関羽は参戦した。
 関羽は曹操からもらった名馬、赤兎に跨り、堂々と参戦した。曹操から顔良を倒すよう言われると、関羽はすぐに顔良のもとへ向かい、一刀の元に切り伏せた。袁紹軍最強の武将である顔良が死んだことにより、袁紹軍は総崩れとなり、大敗した。
 袁紹軍本陣では、客将劉備の弟の関羽が顔良を斬ったとして、劉備は袁紹に呼び出された。劉備は本当かどうかわからないとし、文醜とともに兵を率いて曹操軍に当たると約束した。
 文醜は義兄弟であった顔良の仇をとるため進軍した。これに対して曹操は先に食料隊を動かし、その後から軍隊を出動させた。
 文醜は食料隊を攻撃すると、大量の食料を戦利品として持ち帰ろうと、兵士たちに運ばせた。すると、合図で曹操軍が文醜軍を奇襲し、文醜は関羽に討たれ、またもや袁紹軍は大敗した。
 劉備はしっかりと顔良、文醜を討ったのは関羽だと確認し、退却。結局、袁紹軍が大敗し、白馬の戦いは終結した。


官渡の戦い

DATA
年代:200年(建安五年)
対戦相手:曹操軍 V.S 袁紹軍
代表武将:曹操、
結果:袁紹軍の敗走。

 まだアップロードされていません。