Xiahou Dun Yuanrang

名前 夏侯惇 元譲
ルビ カコウトン  ゲンジョウ
所属 魏(曹操)
?〜220 ?歳没
列伝 魏書 諸夏侯曹伝 第九

 

ゲーム三國志に見る、夏侯惇の能力

  武力 知力 政治力 統率力 魅力
三國志Y 92 71 84 88 82
三國志Z 91 72 74 83
三國志[ 92 63 68 84
三國志\ 92 64 76 90
平均値 91.7 67.5 75.5 89 83

三國志Z、[については統率力がないので省略し、三國志\では魅力が無いので、魅力を省略した。
また、少数は小数第二位を四捨五入した。

夏侯惇の平均値をレーダーチャートで表すと、左図のようになる。やはり夏侯惇らしく武力が最も高く、また統率力、魅力が高いことが分かる。しかし知力や政治力、特に知力が低い。博望坡の戦いで見事に諸葛亮に完敗したのがいい例だと思う。だが、武将としての気質ははっきりと存在する。
〔武将の能力〕
『将軍』:武力、統率力が高い。
〔武将のランク〕
B:平均値合計406.7

〔列伝〕
 夏侯惇は前漢を起こした劉邦の部下である夏侯嬰の末裔に当たる。つまり、名門の家の出となる。さらに曹操とは従兄弟にあたり(資料参考)、また夏侯淵とも従兄弟関係があり、さらに曹操の従兄弟に当たる曹仁、曹洪らと仲良くしていた。十四歳の時、先生について学問をしていたが、その先生が侮辱されると、その侮辱した男を夏侯惇が殺した。これにより、夏侯惇は気性の激しい気性の持ち主だと言われるようになる。
 曹操が兵を挙げた当初から、夏侯惇はいつも裨将軍(部隊長)として、征伐に従い、曹操が初平元年(西暦190年)に行う奮武将軍に任命されると、夏侯惇を司馬(実働の部隊長)に命じ、さらに折衝校尉に任命して、白馬に駐屯させ、東郡の太守に任命した。
 曹操が、陶謙征伐を行ったときには、夏侯惇を濮陽の守備に当たらせた。そのとき、張邈が曹操に対して反乱を起こし、呂布を向かい入れた際に、曹操の家族は鄄城にいた。夏侯惇は、曹操の家族を救うために、軽装備の軍隊を率いて、鄄城へと向かった。だが、その途中、呂布軍とばったり出くわしてしまい、交戦せざるを得ない状態になってしまった。夏侯惇は、なんとか呂布を濮陽城まで撤退させることに成功したが、その後呂布が夏侯惇軍の輜重部隊を襲撃した。夏侯惇は、偽りの降伏に騙され、逆に捕らえられて、人質となってしまった。
 そのあと敵が、人質の代わりに財宝をよこすよう脅迫してきたので、夏侯惇の軍は怯えてしまった。そのとき、夏侯惇の武将であった韓浩は夏侯惇の軍の陣中に現れ、諸将を集め、武装を解除して、各部署に着け、動いてはいけないと命じたことにより、ようやく夏侯惇軍は落ち着きを取り戻した。
 その後、韓浩は、夏侯惇が捉えられている場所に行き、夏侯惇を捕らえた武将を叱責した。
「極悪者め!大胆にも夏侯惇将軍を捕らえたのだから、覚悟はできているだろうな?だいいち俺は、命令を受けて貴様らを討伐しに来たのだ。どうして、たかが一将軍のために、大目にできよう?」
 その後韓浩が涙ながらに、夏侯惇に言った。
「国の法ですので、将軍のお命にかまっているわけには行かないのです」
 そして韓浩は兵士を呼び寄せると、夏侯惇を人質にしていた兵士たちに斬りかからせた。すると兵士は、恐れ慌てて、頭を地面に叩きつけて
「私どもは、必要な品物(軍資金)を頂戴しようとしただけです」
 と謝ったが、韓浩はこの兵たちを叱責した上で、斬り殺した。
 夏侯惇が助かった後、曹操はこの話を知り、韓浩に言った。
「お前のやり方は万世に通じる法律だ」
 その後、曹操は法令に『以後人質を取るものがいた場合には、人質になった者も、人質をとったものもかまわず討て。人質のことを考慮してはいけない』と命じた。そして、その後、人質をとって脅迫するものはいなくなった。
 『後漢書』の「光武紀」によると、建武三年(A.C33年)、盗賊が陰貴人の弟をさらう事件があり、そのとき役人は人質に対して考慮することを許されなかったので、盗賊に接近し、結局は人質が殺されてしまった。この出来事から、人質にかまわず賊を討つというのは、昔からあったとされる。
 しかし、安帝、順帝以後(A.C125年前後)以後は、政治も教育も衰退し、王公かまわず人質にしてしまう場合が出てきたので、彼らの身の安全を図るため、国の法を守ることができなくなった。それを韓浩が始めてもとへ戻し、人質に取ったものを斬り捨てたので、曹操は喜んだのだ。

 曹操が徐州から帰還すると、夏侯惇は呂布征伐に従軍したが、そのとき、流れ矢に当たって、左目を負傷した。後に、同じ将軍である夏侯淵と区別するため、軍中では夏侯惇のことを盲夏侯と呼んだ。夏侯惇はそれを嫌がり、鏡を見るなり腹を立てて、鏡を地面に投げつけた。
 その後、再び陳留、済陰の太守を受け持ち、建武将軍の称号を得て、高安郷侯に封ぜられた。
 当時、大干ばつとイナゴの襲来という大きな被害に見舞われた。そこで夏侯惇は太寿の河をせき止めるための堤防を築いた。そして自らが土を担いで働き、将軍や兵士らを率いて稲を植えるよう指導し、民はその恩恵を被った。その後、河南尹(首都圏の長官)に転任した。
 曹操が河北を平定(袁紹を討伐)すると、その大軍の殿軍〔しんがり〕を務めた。鄴が陥落すると、伏波将軍に昇進し、河南尹をその後も領することが許され、さらに法律に拘束されず、己の判断により適切な処置を取ることが許された。
 建安12年(207年)、朝廷は夏侯惇の多大なる功績を取り上げ、1800戸を加増し、合計2500戸とした。
 建安21年(216年)、孫権討伐に随行し、帰還するとき、曹操は夏侯惇を二十六軍の総司令官に任命し、居巣に駐屯させた。曹操は楽人と歌姫を夏侯惇に送り、兵士たちに言った。
「春秋時代、晉の魏は、えびす(胡族=異民族)との和睦を成功させた功績があるだけで、鍾や磬の楽器を与えられた。ましてこのようなことは、元譲にしてみれば、当然のことである」
 建安24年(219年)、曹操が摩陂に陣を張った際、夏侯惇を側近くにおいて、同じ車に乗って出かけ、特別な親愛と尊重の意を示し、寝室の中まで入ることが許可された。諸将のうち、彼に比類するものはいなかった。
 他の臣はみな魏から称号を受けていたが、夏侯惇だけは漢王朝の官であった。そこで曹操に上訴して、自分は臣下として扱われない特別待遇に該当する人間ではないと述べた。それに対して曹操は
「最高の扱いは、臣下を師として待遇することであり、その次は臣下を友として待遇することだと聞いている。そもそも臣下とは徳義に尊ぶ人間のことである。なぜ、こんな小さな魏が、どうして臣下として君に頭を下げようか」
 と言ったが、夏侯惇が強く要請したので、前将軍に任命した。
 諸軍を率いて寿春に帰還し、召陵に軍営を移動させた。曹丕が王位に就くと、夏侯惇は大将軍に任命されたが、その数ヵ月後に逝去した。

 夏侯惇は軍中にありながらも、先生を迎えて親しく講義を開いた。生活は清潔で慎ましやかで、余分の財産がある場合は、いつも人々に分け与え、不足の場合には、役所から支給を受け、財産作りに精を出さなかった。夏侯惇は曹丕から忠侯という諡を与えられ、子の夏侯充が後を継いだ。
 曹丕はは夏侯惇の功績を思って、子孫のすべてを侯にしてやりたいと考え、夏侯惇の領邑のうち千戸を分割して、その七人の息子および二人の子孫に分与し、みなに関内侯の爵号を賜わった。夏侯惇の弟の夏侯廉と子の夏侯楙はもともと列侯に封じられていた。
 以前、曹操は自分の娘、清河公主を夏侯楙にめあわせた。夏侯楙は侍中尚書・安西鎮東将軍を歴任し、仮節になった。
 夏侯充が逝去すると、そのこの夏侯〔广異〕が跡を継ぎ、夏侯〔广異〕が逝去すると、その子の夏侯劭が跡を継いだ。

〔私評〕
 僕の一番好きな武将です。彼は。ただ、彼は正史では武将というより文官のイメージの方が強いです。結構都周辺とかを警護してますし。そうなると、夏侯惇のイメージはどんどん崩れていってしまいます。やっぱり夏侯惇は武人でないと。
 また、軍中でも講義を開いたり、清潔で慎ましやかというイメージも夏侯惇には存在しないイメージです。夏侯惇はいかにも男臭い、そういうイメージが強いです。
 でもやはり、隻眼でありながらも、各地で転戦したと言うことは、それなりに猛将なのかも知れません。