Xiahou Yuan Miaocai

名前 夏侯淵 妙才
ルビ カコウエン ミョウサイ
所属 魏(曹操)
?〜219 ?歳没
列伝 魏書 諸夏侯曹伝 第

 

ゲーム三國志に見る、夏侯淵の能力

  武力 知力 政治力 統率力 魅力
三國志Y 90 58 56 79 82
三國志Z 88 53 49 64
三國志[ 92 51 56 80
三國志\ 92 51 64 91
平均値 90.5 53.3 56.3 85 75.3

三國志Z、[については統率力がないので省略し、三國志\では魅力が無いので、魅力を省略した。
また、少数は小数第二位を四捨五入した。

夏侯淵の平均値をレーダーチャートで表すと、左図のようになる。
典型的な武将のチャートで、武力と統率力以外は殆どだめ。傾向を見ると、徐々に武力が上がってくることが分かる。多分これ以上はあがらないだろうが・・・。
〔武将の能力〕
『将軍』:武力、統率力が高い。
〔武将のランク〕
B:平均値合計360.4

 

 夏侯淵は、夏侯惇の従弟に当たる。曹操が故郷(沛国譙県)にいたころ、県の長官に関する事件で罪になったことがあった。そのとき夏侯淵は曹操の身代わりとなって重罪を引き受けたが、曹操が夏侯淵をうまく救出させたので、助かることができた。
 また当時、兗州、予州は大混乱に陥っていた。夏侯淵は、飢餓で苦しんでいる中で、自分の幼い子供を捨てて、死んだ弟の娘を救った。
 
 曹操が挙兵すると、夏侯淵を別部司馬(副官)・騎都尉(近衛騎兵隊長)に任命して従軍させ、その後、陳留、潁川の太守に任命した。
 袁紹と官渡で戦った際には、督軍校尉を代行した。袁紹が敗北すると、兗州、予州、徐州の兵糧を取り仕切った。その当時、軍には兵糧が乏しかったが、夏侯淵が絶えず輸送を続けたため、勢いを盛り返した。
 昌豨が謀反を起こしたとき、曹操は于禁を派遣し昌豨を鎮圧しようとしたが、攻め落とすことができないので、さらに夏侯淵を派遣して、于禁と協力して昌豨と戦った。かくして、昌豨を攻撃して、彼の十あまりの屯営を攻め落とし、昌豨は于禁のもとへと降伏した。夏侯淵は帰還すると、典軍校尉に任命された。
 夏侯淵は、武将として急襲を得意として、いつも敵の不意を突いていた。そのため軍中では「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で一千里」と言われていた。

 済南郡と楽安郡の黄巾賊、徐和と司馬倶らが城を攻撃し、県の高官を殺害した。これに対して夏侯淵は、泰山、斉、平原各郡の兵士を率いて彼らの軍勢を攻撃し、散々に打ち破り、徐和を斬殺し、黄巾賊の支配していた各県を平定し、食料を没収して、兵士に渡した。
 建安十四年(二〇九年)、曹操は夏侯淵を、
行領軍(代行の直属の親衛隊司令官)に任命した。
 曹操は、孫権征伐から帰還すると、夏侯淵に諸将を指揮させ、廬江郡の反乱軍、雷諸を攻撃させた。雷諸を打ち破ると、曹操は夏侯淵を行征西護軍(代行の征西将軍)に任命し、その後夏侯淵が徐晃を指揮させ、太原の賊徒を攻撃させた。夏侯淵は、二十あまりの屯営を攻め落とし、賊の頭目である商曜を斬り、その根拠地を破壊した。
 その後、韓遂らの討伐戦に随行し、渭南において彼らよ交戦した。また朱霊とともに、隃糜と汧の氐族を平定し、曹操と安定で合流し、楊秋を降伏させた。

 建安十七年(二一二年)、曹操は鄴に帰還すると、夏侯淵を行護軍将軍(護軍将軍の代行)に任命した。夏侯淵は朱霊、路招らを指揮させて、長安に駐屯した。そして夏侯淵は南山の賊、劉雄を攻撃し、その軍勢を降伏させ、また鄠〔こ〕にいた韓遂、馬超の残党を包囲し攻め落とし、梁興を斬殺し、博昌亭侯に任命された。
 馬超が冀県にいる涼州刺史である韋康を包囲すると、夏侯淵は韋康救援に向かった。しかし、夏侯淵の軍が到着する前に韋康は敗北してしまった。その後冀県から二百里(約九キロメートル)の地点で馬超が夏侯淵の軍を迎え撃ちにし、夏侯淵軍は敗北した。さらに馬超に呼応して、汧の氐族が曹操に対して反乱を起こしたため、夏侯淵は軍隊を帰還せざるを得なかった。
 建安十九年(二一四年)、趙衢・尹奉らは馬超を殺そうと計画し、まず姜叙が鹵城で兵をあげ、彼らに呼応した。趙衢らは、馬超を騙して姜叙攻撃に出陣させたあと、彼らは馬超の妻子を皆殺しにした。仕方なく馬超は漢中に逃亡したが、再びもどってきて、祁山〔示阝〕を包囲した。姜叙らは曹操に急ぎ救援を要請した。
 それに対して諸将や意見を述べる者たちは曹操の指図を待とうといったが、夏侯淵は
「曹操様は鄴に居られ、往復四千里(一七六〇キロメートル)もある。沙汰をいただくころには、姜叙らは敗北しているに違いない。それでは、救援はできないぞ」
 と言い、かくして姜叙らを助けるため、出陣した。夏侯淵は張郃に歩兵、騎兵合わせて五千を率いさせ先鋒とし、陳倉の間道を通って進軍させ、夏侯淵自身は兵糧の監督として、殿軍となった。