◇三國志と三国志演義
皆さんは三国志といってもとても大きな幅だというのはご存知でしょうか?一纏めに言えば、後漢末から三国時代にかけての物語といったところでしょうか?
では三国志とは何でしょうか?現代において、三国志というものは、三國志と三國志演義(もしくは三國演義)とに分類されます。前者は歴史書であり、後者は物語(平家物語のようなもの)です。
ではまず前者から見ていきましょう。
三國志は現代では、普通の三国志と区別するために、正史・三國志と呼ばれることが多いです。ということで、ここでも三国志と分けるために、正史・三國志と呼ぶことにします。
正史・三國志は晉(三国時代の次の王朝)の学者である、陳寿(字:承祚)が編纂しました。陳寿はもともと三国の一つである蜀の生まれで、蜀滅亡後、晉の学者として、魏、呉、蜀それぞれの人物を紀伝体で色々な資料をもとに作り、それを三編合わせて、三國志としました。
しかし、陳寿が正史・三國志を編んでいるときは、魏を引き継いだ晉であるわけであって、魏を正統な王朝として、また魏の人物の本当の一面(実は悪かったなど)が書けなかったのです。
そして、晉の後に五胡十六国時代という、群雄割拠の時代があり、その時代の学者であった、裴松之(字:世期)は、陳寿が編んだ正史・三國志以外の三国時代に登場する人物のことについて書いた数々の書物を集め、それを註として、付け加えました。これにより、例えば曹操は、幼名が、阿瞞や吉利であったことなど、色々と新たな発見が生まれました。
そしてこれが、現代まで伝わり、そして正史・三國志と言われています。 後者の三國志演義は、正史ができてから凡そ1000年後、元末期から明代にかけて、湖海散人と称した、羅本(字:貫中)が、正史を基準としながらも、蜀を正当化とした、三國演義を書き上げました。。これは、物語風に、全120話で構成され、七割が事実で残りの三割が虚であるとされた作品であり、それが現代まで伝わり、広まっている作品なのです。 ◇三國志の三国とは・・・? 上の文章では、魏、そして蜀という国が登場しました。それが三国のうちの二つです。そしてもう一つが呉です。つまり三國志の三国とは、魏、蜀、呉のことなんです。
ではそれぞれどういう国なんでしょうか?一つ一つ見ていきたいと思います。
まず魏は、後漢王朝の後を継ぎ成立した王朝です。後を継いだという表現は正史を基準とした考え方で、演義では簒奪したといったほうが正しいかもしれません。とりあえず、後漢王朝から魏王朝へ政権が委ねられたのです。
その魏は日本では、卑弥呼と関連付けて有名ですね。邪馬台国の女王卑弥呼は、中国に使者を出し、その中国の国が魏であり、この邪馬台国について書かれている、魏志の倭人伝の魏は三国の魏なんです。
その魏の建国者は曹丕(そうひ)という人物。よく、曹操(そうそう)と思われる人もけっこういますが、曹操は曹丕の父であって、魏王朝の体制を作りましたが、皇帝にならずに死亡し、息子の曹丕が帝位についているのです。
蜀は、上で書いたように演義において正統な王朝です。ではなぜ演義では正統な王朝なのか?
蜀の建国者である劉備(りゅうび)は後漢王朝の前の前漢王朝(この二つを合わせて漢王朝)の皇帝の息子の子孫に当たり、つまり皇帝になる資格を有していたのです。演義の中でもそのことが言及されており、いわば魏の正統を反対するために描かれたような感じになっています。
蜀は有名な武将が多く、劉備を始めとして、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)、諸葛孔明(しょかつこうめい)など、我々にも馴染みが深いような名前が登場します。
呉は、上の文章で言えばあまり無関係のように思えますが、水軍に優れた大国です。有名な赤壁の戦いで勝利したのはこの国ですし、晩年は蜀と同盟を結び、魏に対抗しています。
呉では主君が次々と変わり、また総司令官的な役職の将も次々と死亡しているため、変革が多いです。
呉で有名な武将は、周瑜(しゅうゆ)などがいます。周瑜は赤壁の戦いの際、総司令官に任命され、見事曹操軍の大軍を追い払っています。
◇三国志の話の概要
舞台は今から1800年以上前の中国。日本では邪馬台国の時代です。その当時、中国の王朝は漢(後漢)といい、宦官や外戚と呼ばれる権力者たちの争いにより疲弊していました。
また、腐敗した政治が流行し、権力者たちに賄賂を払って、地位を獲得するものたちが現れ、そのせいで民衆たちの生活は困窮しました。
そのような中、張角を首領とする太平道と称する宗教結社が挙兵します。それに対抗するため、漢王朝は軍を派遣し、黄巾党の乱を鎮圧しますが、このとき活躍したのが、曹操や劉備、孫堅(孫権の父)たちです。 これ以降は今後更新していきます。
◇最終的な統一国は?
ではその三国を制した国とは一体どこなんでしょう?
歴史の教科書などで中国の年表が書かれていて、大体その当時の王朝の名前が書いてあります。それを見てみると
(夏)→殷(商)→周→春秋戦国→秦→前漢→新→後漢→三国→晉...
三国の後は、晉(しん)と書いています!魏でも呉でも、蜀でもなく、晉なのです。では三国の後に晉に至った経緯を紹介しましょう。
魏、呉、蜀という態勢が成立してから四十年余り経ち、どの国も有能な配下が死亡し、国力は疲弊していました。とくに魏では、司馬懿(しばい)という人物(諸葛亮のライバル)が実権を握って以来、司馬氏の権力がかなり強かったのです。
また、蜀や呉でもかつてほどの国力はなく、三国鼎立の状況を守るのが精一杯で、また、蜀では主君であった劉禅(りゅうぜん)は、宦官や佞臣のいうことを信じ、呉では孫皓(そんこう)が暴政を行い、両国ともに忠義の臣の諫言は届きませんでした。
そして、こうしている間に魏はまず蜀討伐に乗り出します。抵抗がありながらも、蜀の首都を陥落させ、蜀は滅亡します。
今度は呉を攻めようとしたとき、乱が起こります。あの司馬氏で、司馬懿の孫に当たる、司馬炎(しばえん)が魏の皇帝を引き摺り下ろし、自らが帝位につき、国号を晉と改めます。これによって魏が滅びたのです。
そしてその晉は呉を討伐。都を陥落させ、呉を滅ぼし、晉が天下を平定するのです。
◇晉の統一以降は・・?
晉は280年に中国を統一します。その後は、晉の治世が続いたのかといえば、そうではありませんでした。
晉は豪族勢力が強く、また、四代目皇帝の愚政により、外戚が内乱を起こし、これに乗じて豪族たちが反乱を起こします(八王の乱)。
また、この乱に乗じて北方異民族が中国に侵入し、そのうち劉淵(りゅうえん)に率いられた匈奴(きょうど)が、漢後に前趙を建国し、勢いに乗じて洛陽、長安を降伏させ、晉は崩壊します(永嘉の乱)。わずか36年の天下でした。
その後、晉の王族であった司馬睿が、呉の都であった建業に移り、改めて晉を再興します(東晋)。
この中、三國志より激しい群雄割拠の時代を経て、約200年の混乱時代の後、隋が中国を統一します。
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