Ma Liang Jichang

名前 馬良 季常
ルビ バリョウ キジョウ
所属 蜀(劉備〜劉禅)
187〜225(38歳没)
列伝 蜀書 董劉馬陳董呂伝第九

 

ゲーム三國志に見る、馬良の能力

  武力 知力 政治力 統率力 魅力
三國志Y 25 87 93 57 82
三國志Z 22 84 91 80
三國志[ 40 84 92 82
三國志\ 32 84 90 39
平均値 29.8 84.8 91.5 48 81.3

三國志Z、[については統率力がないので省略し、三國志\では魅力が無いので、魅力を省略した。
また、少数は小数第二位を四捨五入した。

馬良の平均値をレーダーチャートで表すと、左図のようになる。完璧な文官肌の馬良。武力は低いが、知力、政治力、魅力がそれをカバーしています。ただ、「馬氏五常、白眉最も良し」という言葉があるように、蜀においては、かなり有能な人材のようです。
〔武将の能力〕
『軍師』:知力と政治力が高い。
〔武将のランク〕
C:平均値合計335.4

〔列伝〕
 馬良は襄陽郡宜城県の人である。馬良は五人兄弟で、皆秀才として有名で、郷里では諺として「馬氏五常(全員字に常がついたので)、白眉(馬良)最も良し」と言われていた。馬良には、眉の中に白い毛があったため、白眉と呼ばれるようになった。
 劉備が荊州を支配下に治めると、馬良を召しだして、従事とした。劉備が益州に入り、諸葛亮もまた後から益州に入ったが、馬良は荊州に留まり、諸葛亮に手紙を送った。
「雒城はすでに陥落したと聞いていますが、これは天から与えられえた幸いであります。孔明殿は、機運に答え世直しのために力を貸され、大業の樹立に加わり、国家に対して光輝をもたらしており、成功の兆しは見えております。
 そもそも、変化に対して必要なのは、優れた思慮深さであり、判断において必要なのは、明察を広く働かせることです。そして才能のある人材を選べば、時代の要求にあった政治を行うことができましょう。
 もしも、自らの英智を見せず、遠国の人を喜ばせ、天地にまでその徳を示し、この時代の人々が服従を当然と考え、世間の人々が安心して、その道理を受け入れるなら、それは妙なる音楽を奏でて、みだらな音楽を正し、演奏の効果を高めて調和を生み出すのと同じで、これはまさに至高の演奏であり、伯牙や師嚝(両方共に古代の琴の名手)の調べです。鍾子期(伯牙の琴の理解者)ではなくても、一緒に拍子をとらないでおれるでしょうか?」
 劉備はその後、馬良を益州へと呼び出し、左将軍の掾(属官)に命ぜられた。

 後に、馬良は使者として呉に派遣された際に、諸葛亮に向かっていった。
「今国家の命令を受けて、二国の親睦を図ることになりましたが、どうか孔明殿、孫将軍に私の紹介状を送ってください」
 すると諸葛亮は言った。
「君がためしにその紹介状を作ってみよ」
 馬良はすぐさま草稿を作った。
「わが主君は、掾の馬良を派遣して、ご挨拶を送り、これまでの交友関係を継続し、昆吾氏、豕韋氏(ともに夏王朝に使えた諸侯)の勲功を受け継ぐ所存です。この馬良は立派な人物であり、荊楚出身の名士であります。華やかさには乏しいとは申しますが、最後まで持続する美しさを持っています。願わくは、そのお心を曲げて、お受け入れ下さり、お取次ぎできるよう、お願いします」
 果たして孫権は、馬良を手厚く待遇した。
 劉備が皇帝の位に就くと、馬良を侍中(宮中で天子の側近に侍する役)に任命した。呉を征伐するに当たって、馬良を武陵へと向かわせ、五渓の異民族を帰順させた。異民族の頭領は皆、蜀の官位を示す印と称号を受け取り、全て目的どおりとなった。
 劉備が彝陵で呉軍により敗北し、そのとき馬良は殺害された。劉備は馬良の子、馬秉を騎都尉に任命した。

〔私評〕
 演義では結構色々な活躍をしているように見えますが、何か正史では儚いですね・・・。彝陵の戦いで討ち死してしまうんですから。
 ただ劉備の使者として呉に赴く際に、自分で自分を書いた紹介状は、何か自分に対する遠慮が見られず、自分という人物をしっかりと分かっているような気がします。